「湯豆腐って料理と言えるのか?」
こういう事をおっしゃる方が結構います。
まぁ、鍋に昆布を入れて水を張り火を入れ、煮立ったら豆腐を加えて食べるだけのものですから、そういう見方も出てくるでしょう。
しかしですな、「では料理とは何です?」ということ。
ややこしい複雑な調理工程があるほど良いのですかな。
そういうのは、大学の実験室や企業の開発室にまかせておけばよいのであって、料理とは別のモンですよ。
湯豆腐ほど洗練された「鍋料理」は他にないでしょう。
作り手と食べる側が百人いれば「千通り」の味わいがある。
なぜ「百人百様」でなく、百が千になるのか。
それは「作る度に必ず味が違うから」です。
これは同時に「食べる側の味覚を試される非常に厳しくて怖い料理」だということです。
一級の真昆布、アルプスの湧水を使い、最高の職人が造った豆腐を湯豆腐にしてもね、食べる側がそれらに無頓着であれば、スーパーで買った大量生産の豆腐を水道水と味の素で食べるのと何も変わりない結果になります。
さらに言えば、そういう微妙な味の違いが分かる食通であっても、鍋から豆腐を取り出すタイミングが数秒異なるだけで、もう「別のもの」になってしまう。
ま、ホンネを正直にいいますと、そこまで「食通ごっこ」をするのはバカバカしいと思ってますけどね。
グルメも結構だが、【美味いか、マズいかは、個々人の問題であって、他人が干渉できるようなものではない】のですよ。
なので、湯豆腐を料理と思っていない人はそれで結構だし、凝り性な人はとことん拘ればよい。好きにすればいいだけのことです。自分の価値観を他人に押し付けさえしなければ、なんであろうとその人の自由だと思いますね。
料理とは食品を加工して食べる人の「主観に問う」ものであって、客観的に例えば付加価値を加えようとする等は愚かなことです。
何に対して満足するかは食べる人の価値観の問題。
だからこそ、飲食店というものがたくさん存在しているわけで、もし「ヒト特有の個人的な価値観」がないとすれば、家畜のように飼料メーカーのエサを食べていれば済むわけですし。
さて、訳のわからん屁理屈はこのへんにして、湯豆腐の話に戻りましょうか。
湯豆腐は鍋料理です。
鍋の種類は色々ですが、豆腐につたわる熱は緩やかが望ましいので、やはり土鍋が良いかも知れません。
主役である豆腐に”ス”が入ってしまうとちょっとね
”ス”が入ると、崩れやすくなり、締まって固くなります。
原因は煮すぎです。ボコボコ煮立てるとそうなり易い。
土鍋は火加減を調整しやすいのがよい。