和食の深さ。寿司屋の位置。包丁の意味


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和食か鮨か包丁か

旅先にて、さる和食の先生とバッタリ遭遇。
「景気はどうですか?」と訊ねました。

「いや~厳しいね」
「和食一本では大変です」
「僕も鮨を修行しておけばよかったですよ」

先生が仰るのは、日本人がいかに寿司好きか。
それが数字となってはっきり出ているからです。

先生のお店はモダンな造りにて、お出しになる料理も常に最新の創作を加えた日本料理。名前に居座る事なく驕る事もなく、いつも新世代の人々のニーズを把握する努力を継続し続け、料理に反映させております。

ですからお客が途切れる事はなく、実際には商売繁盛って具合なんでしょう。これは先生の人間性によるもので、だからこそ尊敬に値する料理人なのであり、おいらが腹から「先生」と呼ぶ理由でもある。

けども、それでもやはり寿司は気になるご様子です。
おいらに対するたんなる「ご挨拶」とばかりは言えないのです。

寿司という食べ物が日本の外食産業に占める位置を考えますと、この業界の者は誰も無関心ではいられませんからね。

もっともご他聞に洩れず寿司業界も競争が激しく、「資本主義化」が顕著ですので、個人店はかなり厳しい経営状態が多いですね。

(1)『なんでも屋』と専門店

都市の料理屋は、寿司は鮨屋、和食は和食屋、鰻はうなぎ屋、テンプラは天ぷら屋、ソバ屋は蕎麦屋、それぞれに独立してるのが通常の形態で、野暮な『なんでも屋』を田舎臭いとして避けるもんです。それでも商売が成り立つという都会ならでの事情も背景にありましょうね。むしろ専門化せねば集客し難いと言えるでしょう。

特に東京において『なんでも屋』は粋とはみなされない。もちろんおいらの感性でもそれを「粋」だとは思いません。

しかしおいらは「鮨」と「和食」どちらかの専門化を選ばず、あえて両方を出す店にしました。周囲には反対されましたし、冷ややかに見る人もかなりおりました。

親方にすらあまり感心されなかったにも関わらず、強行したのは自分なりの「戦略」があったからです。

もちろん「なんの店か分からない」、あるいは「居酒屋みたいななんでも屋」にならない様に、特殊な「ひねり」を加えております。

「ひねり」と言っても簡単な事で、ここが東京であることを考えればすぐに想像がつく筈です。

(2)「和風」という言葉

日本料理も時代と合わせて進化を続け、「あか抜け」はとどまる事なく、器との組み合わせを考慮すれば「無限の進化」をみせています。しかし料理法自体が無限にある訳ではありません。

和食の基本というのが存在する以上、「手」はある数で限定されます。相撲が四十八手から大きく逸脱できないのと同じ事。

「似たような事の繰り返し」に苦しめられる事もあります。壁に突き当たる時期が訪れるのですよ。

ならばこそ「洋食化」に傾いていくのです。

和食となってる天ぷらやしゃぶしゃぶも元をただせば舶来品。カレーにオムライス、ハンバーグにコロッケ。これ等はもう和食の一端。外国料理との融合は特別な事ではない。

人間の交流があるので混ざり合うのは当然でしょう。そうして新しい味が生まれ、美味しい料理が誕生します。

でもね、「洋風懐石」ってのには賛成できません。決まり手の範囲に苦しむからって安易に洋食に逃れる。

もっともっと苦しめばいいんです。
安直にイタリア風などと洒落ても、全然お洒落ではない。

和食の幅を広げるのは良い。
だがその前に和食をとことん追求したのか。

違うもの同士が融合し新たな何かが生まれる。
それは否定しません。
しかし「失くしてはいけないもの」もあるはずです。

今のこの時代、今のこの日本だからこそ「失くしてはいけないもの」に価値があるとおいらは思います。多分日本国内にいてはその感覚は分かってもらい難いでしょう。しかし海外暮らしの邦人にはよく理解できるはずです。

日本人が作り日本人が食べる和食に「和風ナントカ」という料理名をつけて呼ぶ。そうした現象に何も違和感を感じないのが日本に住む日本人の現在の姿です。

おいらも色々と実験的なミックス料理を作る事が多く、ひどく大胆なものもあります。しかしそれらの料理をお客さんに出すことは絶対にありません。外国の料理手法を取り入れて色々やっているのは「和食」をもっと知るためです。

(3)和食のルール

鰹のタタキにニンニクがぴたりと合うのは板前も承知してます。どんな料理でも旨くするのがニンニクだと言えましょう。

それが分かっていても板場に強烈なニンニクの匂いを充満させることは出来ません。大蒜だけじゃなく、ある種のハーブ・スパイス・調味料は日本料理の根幹を無にしてしまう可能性があるのです。

似た意味で、基本である出汁も同じく様々な素材を添加すれば非常に美味しくなりますが、それをしてはいけない。昆布と鰹節で「引く」ベースにはそれなりの意味があるのです。

遠慮がちの密やかな主張しか持たぬ大部分の和食材。その消えて無くなりそうな自己主張を引っ張りだしてやるのが和食です。

自己主張ばかりで我の強い「舶来食材」を扱う場合は、その事を充分に承知してなきゃいけません。

美味いからという理由だけで、板場やつけ場にニンニクを持ち込み憚らぬ板前もおりますが、自分が日本料理の一翼だという意識がまるで無いのでしょうかね。

和食は和食である。日本風ではなく日本料理。
それを再認識したいからこそ、おいらは和食の道に入ったのです。

仕事の9割は『段取り』
残りの10%をどう使うかは板前の自由です。
おいらの場合その1割は「ご褒美タイム」だと考えています。
即ち「お客さんの喜ぶ顔を見る時間」ですな。

人間の気持というのはいつも揺れ動きます。
機嫌の良い時もあれば悪い時もある。
感情の動物なので致し方ありません。

しかしお客さんの前に立ち鮨を握ろうって男が、小さな己の感情などで気持をウロウロさせてはいけません。

考えるべき事はひとつだけです。
どうやって目の前のお客さんを楽しませ、口福を与えるか。それに全神経を集中しなきゃいけませんね。

その集中と「想い」は、必ず態度や作る料理に現れます。
そうであればこそ「反応」が得られます。

それを長年繰り返していますとね、不思議なものでお客さんの顔を見ただけで「食べたがっているもの」が分かるようになってくるんですよ。

例えば同じ人でも前回握ったシャリのサイズを今日は倍の大きさにするとかもあり得ます。握りを一切出さないで、和食の羹だけって日もある。

そんな様な顔をしてますので、「今日はこんな煮物がありますよ」と言う訳です。それは往々にして外れない。素振りと顔つきで分かる。

お客さんとの対面のかけ合いにて『商売』を意識することはありません。喜んでもらえれば金にならなくてもいいんです。

何故かと言いますと、その方が心から満足なさればね、後日店の「本番」である会席又は懐石のお客になって下さるからですよ。もちろん多人数を引き連れて来てくれるんです。

しかしながらその場ではそんな打算めいた思いがある訳ではありません。何も考えず満足してもらう事に集中してますんでね。

鮨のカウンター仕事。
これがいかに重要な事であるか、
なんとなく分かって頂けましたでしょうか。

さぁて、段取りはほとんど終わりました。
お客さんの笑顔でも拝見しに行きましょうかね。

ただし心が弛んでいない証に、磨きぬいた庖丁を持ってです。緊張感を無くし、お客を「友達感覚」などで見ては、板前失格ですから。お客は何時いかなる場合でも、誰であっても、「お客様」なのです。

お客に魚を見てもらう
仕事をした種もあれば生魚もある
お客か板前が種を決める
庖丁が動き種を切る
そいつを素手で握る

その一部始終をお客は見ています
つまり仕事の段取りを共有しているのですよ
板前と客の双方でね

このような食形態は他に考えられません。江戸前鮨なればこその特殊性です。

客同士酒に酔い、話に夢中になるも結構。握った鮨をいつまでも食わずにお喋りなさる方いるでしょう。

そうしたお客様は、板前が使った庖丁にサビが浮いていても気付く事はない。種の吟味もなければ、まな板さえも見ない。

共有などまるでなし。

世の中って奴はそんなもんです。

でもね、だからといって投げやりになってどうします。自分はお客さんと「すし」を共有していたいと思えばこそ店を開いた。

「負けねぇ。俺にも意地ってもんがあらぁ」

そうでなきゃ男に生まれた意味がない。

サビの浮いた汚ねぇ庖丁など絶対に使わない。

それは板前の心意気であると同時に、お客の心意気でもあるんです。段取りを共有してる以上、板前が振るう庖丁はお客さんも振るっているのと同じなんです。お客が使う庖丁でもあるんです。

庖丁がいつでも輝いていれば、いつか必ずその輝きの意味をお客さんも知る。もしくはそれが理解出来る方が顧客となって下さる。その数がじりじりと増えていく。

板前とお客はそういう絆を結んでいく関係なんだと思います。



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手前板前.魚山人:The person who wrote this page筆者:文責=手前板前.魚山人