すし職人の現状と将来

 
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江戸前寿司の未来

残暑お見舞い申し上げます。

当方、蒸し風呂のような酷暑を避けてトンズラしておりましたけども、渋々ながら帰京致しました。ハゲタカ連中の仕掛けによる異常な円高に一矢報いる為にも円を持って外に出なきゃいけませんしね。おいらみたいな貧乏人でも頑張って来たんですから、大金持ち日本人はNY(特にManhattan、Financial District近辺※)あたりの土地建物を買いまくって復讐してくだせい。

というか、
だいたい糞暑すぎて息ができないもの、この国って奴ぁ。
死んじまうっての。

我儘放題言っておりますが(~_~;
もう先行きが長くない老耄なんでお許し願います。
(↑都合によって年寄りになる姑息さが既に爺(笑)

目に余る鮨の大衆化(品質低下)

さて、時間の許す限り沢山の場所を回ってきました。
色々と貴重な体験もし、書きたいことが一杯ですが、そいつはいつか立ち上げる「旅のサイト」に書くとします。

今回は急ぎ足で各地を巡りながら「ちょっと気になったこと」を書きます。

おいらはね、
「にぎり寿司」だけは日本人じゃなきゃ駄目だ。
と、長いことそう感じておりました。

握りって奴は日本人の感性と密接な繋がりがあり、その微妙なアヤは外国人に移植できないもんだとね。実際に外人に握りを教えた事も何度かあり、その経験からの感想です。

ひと口サイズのこじんまりした適度な大きさ、
ネタとシャリのバランスと腰高の帯に締まった襟足。品と艶。

そこんとこの「繊細」が理解しきれないのですよ、ガイジンさん。
帯を締めてもユルユルのだらしない着物姿。そんな鮨になる。

江戸前鮨の姿ってのは小股の切れ上がった姐さんの艶姿です。

昔はね(今もですが)、外国に行って寿司屋に入りますとほぼ失望したもんです。出てくるのは「江戸前の鮨」とは程遠い、なにやら訳の解らん妙チクリンなシロモノです。まあ「アバズレ」ってとこでしょう。

ところが今回、その固定観念が覆る経験をしました。
非常に美しい握りずしが出てきたのです。

しかも一店だけではありません。複数の場所(国)に複数の店。
驚いたのはそれを作った者が日本人ではない事。

それは単に見た目が良いというレベルではない。
プロのおいらからみてもほぼ「完璧」

「とうとう来るべきものが来たか」
思わず心で呻きました。

この世の中にコピー出来ないモノは存在しません。
どんなものでもいつかはオリジナルに迫り、そして越える。

「着物の着付け」をキッチリ出来たって事ですな。

では、本家である日本の状況はどうか。
「着物の着付け」どころか着物そのものが消滅している様子です。

何人ものすし職人を使っているそこそこの繁盛店にふらりと入りますと、寿司のあまりの汚さに衝撃を受ける経験をする事になります。

汚ぇ細巻きや軍艦は言うに及ばず、握りまで見るに耐えない酷さ。

チンチクリンのネタの下にあるシャリときたら、
ハリセンボンと言うかヤマアラシというか、パンクしたコロッケと言うか、寿司どころか、まるで幼児が作った締りのないオニギリ。

シャリがささくれて変形したその形は「使い古した亀の子たわし」

そいつを平気で客に出す。

しかも、小僧が握ったモンではなく、いい歳をした職人の仕事。

変形ジャガイモ握りやパンク細巻きに比べりゃアナタ、
ファミレス系の和食店でパートが作る寿司の方がまだマトモ。

何が「寿司職人」だってんだバカヤロウって事。

なにゆえその職人はそれを恥ずかしいと思わねぇのか?
我々からみれば絶対に正常な神経とは思えない。異常です。

ところがご当人達は全然異常だと思ってはいない。
だからお客に出せるのです。

異常と正常が逆転しているのか?
そこですな、問題は。

アバタ面のジャガイモにタネが乗っかった様な変なモンが寿司として通用するようになった理由は何か。です。

今はね、脇をキッチリ締めて左右のバランスが取れた美しい握りずしなんぞ、珍しいモンになってるんですよ。大衆店では。

締りのある綺麗な握りを出せる職人は一店舗に一人居るかいないか。いないケースが増えつつあります。

日本人全体が「雑」になっている事と、寿司職人の腕が雑になっていることには切り離せない因果関係があると思います。

さらなる二極化の進行

国内の寿司店は大きく3種の形態に分かれます。
高級店・中級店・大衆店。

「高級とは何がどう高級なのか?立地場所?」
正確に分けようとすれば分類は多少曖昧になりますけども、すし屋の場合は「ネタと仕事」だと言っていいでしょう。

良いネタを使い、それをきっちり寿司として出せる仕事をする店は高級店です。江戸前寿司の伝統仕事を守っている店でもありますね。

それと対極に位置するのは安い値段で勝負する大衆店。
値を下げる為に必要なのは「客の高回転率」、つまり「大量に売る」です。代表的なのが「回転寿司」と「一貫○○円~」を謳う大型江戸前店の系統。

両者の中間に位置し、「ある程度マトモ」なネタと仕事
だが、安売り店とも高級店とも言い切れない店が中級店。
このような店は「街場のお寿司屋さん」として一時期増殖しました。

ところが近年「中級店」が姿を消す一方です。
(中流層が消えて格差が拡大する先進国を彷彿させ、その構造もよく似ている)

大衆店は構造的に「量を売らないと成り立たない」もの。
いったん始めれば次々に店舗を増やす必要があります。

増殖するアメーバーみたいなモンですな。
徐々に組織が大きくならざるを得ず、出店ラッシュが待っています。

会社が乱立し、どの街にも大衆店が出来る。
そのあおりをまともにくらい、中級店は経営が成り立たず閉店する。
中級店は完全に敗北し、その多くは姿を消しました。

次に待っていたのは大衆店同士の競争です。
この競争で負けたのはキャパシティ(つまり客席数)を増やせば良いと考えた、時代を読めない会社が経営するチェーンです。

「右肩上がりの幻想」から抜け出せない無戦略により赤字に転落。

もうレコードがミリオンセールスをする時代はとっくに終わっているがそれが理解出来ないのでしょう。日本という国は全てにおいて「薄く」なっているのです。

この時代、客席数が多いことに何のメリットもなく、マイナス面しか出ません。キャパが大きいと必然的に人員が増える。常に席がフル回転する事を前提に従業員を配置しなければいけないからです。

回転率が落ちて(つまりお客が減る)、売上が減少すれば人員を減らすしかなく、そうすれば無駄に大きなキャパが重荷になってお客に迷惑を掛ける結果となる。

お客はイライラしてリピート率は下がり増々客数は減る。

実を言えばこうした戦略なき会社ほど「職人」を多く抱えていたのです。消えた中級店から寿司職人を吸収していた訳ですな。

「安く大量に売りたい」
「だが寿司は職人が握ったほうが価値がありそう」

この矛盾した曖昧な感覚が失敗する原因です。

大衆店の本社幹部に寿司の現場が理解出来ない人間が段々に増えていく。数字には強いが寿司仕事の段取りは理解しきれないのです。職人ではなく大学出のサラリーマンですからね。

この連中の頭にあるのは数字のみ。「売り上げ」ですな。
したがって現場に求めるのは「結果」だけです。

「職人さんを入れて付加価値のあるマトモな寿司を出している」
「だからもう少し結果を出してくれ」

この方々には絶対に理解出来ない事実があります。
それは「寿司の仕込み」「寿司の仕事」には1人の職人がこなせる量に限りがあるって事実ですわ。

職人を置いていても「仕事をさせる時間を与えない」
つまり「握る人間ロボット」の扱いですわな。

職人がいても若い者に仕事のやり方を教えるという事もない。
そんな時間などどこにも無いからです。

実質的に他の仕事をしている暇は無いのです。
注文をこなすだけでイッパイイッパイ。

だから寿司の形などどうでもよくなる。

ファミレスなどの業界はセントラルキッチン(工場)で殆ど料理を完成させて店では「チン」するだけでよい。だからバイトやパートでも「調理員」として使えます。今では大きな店でも社員は1~3人であとは全部パート・バイトという状態。

寿司の仕事にもそれが当てはまると思っているらしい。

とんだお笑いぐさです。
それが可能なのであれば職人を雇う必要はない。

職人を使っているのは「まともな寿司」を出すためではないのか?

それを仕事が出来ない程ギリギリに締め上げる。
景気が悪くなればこれ幸いと人を減らし給料も下げる。
ネタも輸入加工品を使用させ「仕事」をさせない。

「たくさん握っていればそれでいい」

従って自分の包丁さえ持たなくてもよい職場とあいなる。
こうした事が延々と続いて来たので「デコボコ握り」が誕生したのです。

「速く握れれば腕が良い」と大きな勘違いをした職人モドキが増殖する。

(速く握るから汚くなって当然ってのは間違いです。どんなに速く握っても美しい鮨にする職人が沢山存在してるからで、要するに「感性」の問題ですよ)

ハリネズミみたいな汚ねぇ握りを見ても誰も何も感じない感性のマヒ。店長もホール係も何の疑問もなくソイツをお客に運ぶ。

客は客でそいつを美味そうにパクパク食べる。

暗澹たる気持ちになりますな。
「日本人は終わってるんじゃないか」と疑いたくなる。

職人を使うなら「マトモな仕事」をさせるべき。
ファミレスの人件費削減が羨ましいのなら寿司業界から手を引くか、三大回転寿司「かっぱ寿司」「スシロー」「無添くら寿司」の路線をさらに進めてパート・バイトだけで商品が出せるシステムを作ればいいのです。

アメーバーの様に増殖して行くのならいずれ将来そういう風になるしかないでしょうからね。

それがどんな寿司か分かりませんし分かりたくもありませんが、
今の日本人なら喜んで食うでしょう。

職人仕事が出来ない環境でもって「新入社員」を入れても板前養成などまったく出来る訳がなく、鮨とオニギリの区別もつかないハンパ職人を増やすだけ。

そんな中途半端な事をやっていれば競争に負けていつか消えてしまうでしょう。企業として生き残りたいのなら職人を全滅させてロボットとバイトだけにすればいいんです。そいつが「本社幹部」とやらのホンネでもありましょうしね。

高級店は「仕事の性質」の関係でキャパをそう大きく出来ません。
「良い仕事」をすれば必然的に量は売れない。

幸いにも最初から「面倒をみきれる席数」しか設置しない。
なので「競争原理」から離れた場所に位置するのが普通です。

「客を取り合う」って世界とは縁がないからです。
ハコが狭いので席を埋める苦労もあまりない。

しかし消費が低迷している現在の日本の状況。これを背景に大衆店は一等地に進出を続け高級店にジワジワと影響を与える様になっています。

経済というのは結局のところ「資本量」で決まります。
いくら品質が良かろうと資本が飲み込んで均質化し、やがて荒れる。

「高品質」と「大衆化」は磁石の両極のようなものです。
絶対に両者が一体化する事はありません。

今は過渡期だと思います。
やがて極端な「格差」が成立していくでしょう。

大衆店が縄張りを荒らせば、喰われたくない高級店はさらに超高級になって行くしかなく、その結果無理をすれば訪問できた一般の方々は、もう絶対に「本物の鮨」を食べることが出来なくなり、極めて少数の上流階級御用達となる。一般社会の表層から姿を消してステレス化していく。

表向き大衆店ばかりになった日本社会の表層から「美しい江戸前握り」は消え去る。美しいものを美しいと感じる日本人の感性は荒れるだけ荒れて国内から消える。ついに美しい鮨は海外でしか見られなくなる。


寿司だけの問題ではありません。
この傾向は何処も同じ。

こうした大衆店を営む会社は料理人を育てる気持ちがありません。
頭でっかちの本部社員の給料を出すため現場作業員をカットする。

新入社員も現場へ配置せず、また現場希望者も減少。
既存の調理員は長時間労働で酷使し使い捨てる。

パート・バイトを主力にする事になるが、
必然的に過酷な労働になるのでバイトも長続きはしない。

「不景気だ、職がない」と言いつつ募集に応じる日本人はいない。
応募するのは外国人だが、日本国はガイジンアレルギーときてる。

本当に「人間型ロボット」でも出現しない限り、この国のサービス業そのものが成立しなくなる日も遠くありません。

こうした大きな流れの「隙間」をこじ開ける手段は「アイデア」でしょうね。すし屋に限らず個人資本で立とうと考えるなら、もはやアイデアを持たずして生き残るのは不可能になってくるでしょう。

「何からアイデアを得るのか」それが問題ですけども、
はっきりしてきたのは「日本国内のモン」からはもうアイデアを得られないって事かも知れません。

『メディアそのものが病気』の日本にて、前後左右を見回しても脳味噌が停止するだけでしょうな。

芸能人にでもなるつもりか、働きもしねぇで、「職がない」「金がない」「ガイジンが悪い」とか、寝ぼけた事を言ってる怠け者の馬鹿はいずれ野たれ死ぬでしょうから放っておけばいい。

「かじる予定」のスネはこの国から消えてしまい、働かぬ者を食わせられる社会ではなくなる筈なので、この連中を救う方法はない。

内部に金を抱え込み、将来に投資する気も効率的な使い方も分からず、自分の従業員にさえも利益をまったく還元する気がない糞会社にて奴隷の様にこき使われてクタクタに疲労し、自分の時間さえロクに作れない料理人。

とてもやり切れない気持ちで毎日を生きている事でしょう。

だが諦めてはいけませんよ。
目を大きく開いて世の中を観てみて下さい。

狭い枠に閉じこめられた発想など捨ててしまえばいい。
日本に跋扈している常識は本当は常識などではないのです。

「まともに仕事を覚えても何もならない」
そういう諦念はね、今の日本が病気だから起きるんです。

正常な世界ではマトモに働き努力するのが本当なのですよ。

隙間のキーワードはね、「マトモ」です。
いざという時にチャンスを掴めるか。
その鍵は自分が「マトモな仕事」を出来るかどうかです。

少なくとも「タワシ寿司」に違和感を感じないセンスじゃ道は開きません。

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