一店に一職人 「鮨屋は甘くない」

  

板前と客の接点

タネの目利き

極上の魚貝類には外見にある種の特徴があります。
スタイルが良く、気品がある。艶っぽい。色気があるって事です。

こりゃあ何のことはねぇ、要するに「良い女」を見極めるのと同じ。
ミョウチクリンなガキ臭いヒラヒラの服なんぞに目を奪われず、〔顔立ち〕・〔腰の肉〕で判断する。

極上であればソコが必ず「生きて」ます。生命力を主張してるって事。死んだような貧相さはどこにもなく、魚なら〔眼力〕も強い。

〔腑抜け〕た個所がありゃ上物とは言えません。

だが、「そうはトンヤがおろさない」ってのは今も昔も変わりません。
文字通りでしてね、そんな〔上玉〕を専門の「魚問屋」が気付かぬ筈はなく、安く売ってはくれません。

だが良くしたもんで、一本売り以外の多くの魚貝はだいたい5キロ箱を広げてバラ売りしている。ここが目の利かせドコロになりますわな。

箱に並んだ魚は同じように見える様にしてありますが、その中で一番の〔上玉〕を選べばいいわけです。一番のベッピンさんですな。

オコゼとかゲンゲ、カジカ、フグなんぞのブッサイクなやろうでもね、上物はよく見りゃ可愛い品のあるツラをしてんですよ。

可愛くないのは食っても美味くない。こりゃ間違いないね。兎も角、魚を見分ける目を持っていれば、良い魚貝を仕入れることができます。

それがあるから和食屋とか鮨屋はかろうじてやっていけるんですよ。
目利きだけが良い魚を少しでも安く仕入れる方法ですな。

日本の海は荒廃し、漁師も後継者不足で先細り。
近海の天然魚は「骨董品」への道を辿っております。

河岸で量を確保できるのは養殖か輸入モン。
この流れは止まらないでしょうな、もう。

けどね、正直、ユルユルの身をした魚など使えない。
だが日本の天然魚は回復の兆しがない。
さらに馬鹿げたグルメブームが続いたおかげで値段は高騰。

結果的に魚がメインになる鮨や和食で、「まっとう」な商売を続けるのがとても難しくなりました。

良い魚を使いたいがフザケタ値段をお客にかぶせる事はできない。だが国産の魚は高価になるばかり。もはや「儲け」など出ない仕事なんですよ。

二通りの道。
銀座なみの値段を頂戴してタネに固執するか。
タネの素性を問わず、店を大衆化するか。

どちらも難しい選択ですが、このどちらかの方向に駒を進めるしかなく、どっち付かずでいると店はやがて潰れる運命へ到る。

もっとも、世の中がこうした流れになる事は何十年も前に分かっていた。先を見越してサバイバルの手を打っておくっていう選択もあります。

一店に一職人

鮨屋は甘くない。
鮨屋を開店させるなら大衆化は選べない。

少なくともおいらが考える鮨屋は主人が一人で切り回せる店。
弟子の一人くらいはいてもいいが、基本的に一人でやれるつけ場。

それ以外の形態はありえないと思いました。とくにおいらの場合東京なので、中途半端な店など一年も続きはしないでしょう。

鮨屋の看板を出そうってんですから、ネタと仕事に関して語るまでもありませんが、寿司ってのは「シャリ」と「主人の個性」で成り立つ商売です。

【一店に一職人】
それが鮨屋の基本であり、全部です。

お客は主人に魅かれて常連になる。

仕事を施したネタと人肌を保つシャリ。
それが出来たとしても、主人の人柄に難があれば、いつしかまともな客は来なくなります。

お客は「店」に、店とは主人、場合によっては主人とそのカミサンに会いに来てるんです。

因みに仕事の先読みが出来ず、自分が使用した物も片付けられず、「動かず・気がきかず」板前仲間から、雑な奴だと思われているような板前は店など持たない方がよい。粗雑な板前は必ず店を潰します。

スシは旨い。よい仕事をしている。ここから興味を持ち、徐々にそれを作る主人の方にも関心が向かい、いつしか馴染客になってくれる。これの繰り返しでどうにか商いが成り立つようになる。

これは主人が毎日つけ場に出る事が前提の職人仕事ですな。
つまり鮨屋の主人はまとまった休暇をとれません。

もし「大衆化」あるいは「大型化」を狙うなら、人を雇うようになるし、法人組織になり社長自らつけ場に立ち続けって事はなくなりますけども、最初書いた様に一店に一職人以外の形態でなくては鮨屋をやる意味は無い。だからそれは有り得ない。

鮨屋の開店は断念し、和食にしたのはそれが理由の一つです。
おいらは庖丁仕事も大好きではありますが、だからと言って趣味である旅行を犠牲にする気はなかったからです。日帰りで行ける旅行は限られたもの。

人生は短く、時間は有限です。
見ておきたいものは見ておく。味わいたい物は味わう。
世界を見ずに死んで行くのは寂しい。それが自分の考えです。

厨房仕事である和食は、意を汲む板前さえ存在すれば、必ずしも店に主人がいる必要はありません。どのへんまで段取りをつけるかは亭主次第でしょうが、献立を境界として裁量をある程度板前頭に任せられます。

旅ができない人生はおいらにゃ考えられません。
それを織り込んで店をやっております。

独立前からすでに、店の営業収入一本ではやっていけなくなると算段。トントンにもって行く事は可能でしょうが、それでは旅行などしてる余裕はない。さらに原価の高騰が経営を圧迫する事も予想済み。

しかし意外とお客がついてくれて、幸い赤にはなりませんけども、なにしろ仕入れに金が掛かりすぎますので大儲けなどできはしません。

おいらが旅行を控え板前を減らし、不味いタネを仕入れて売れば儲かるでしょうが、そんなもんはゴメンです。それなら店を閉めた方がマシ。

なので最初からサバイバルの手は打ってあります。
まあ一種の保険でしょうな。生活の為に仕事の筋を曲げてしまうハメにはなりたくありませんので。

客と板前

鮨にしろ和食にしろ、カウンターでお客と相対するケースですとね、崩れていく板前が出てきます。お客さんとの「距離感」が分からなくなり最後は潰れるんです。

これはお客に「名士」と呼ばれる人が多い鮨屋の板前などに顕著です。

旦那が大臣になったからといって自分まで偉くなった気になるおかみさんと同じ病気なんですな早い話が。親しい人が偉いと手前まで偉そうになる病気。

なぜそんな病気になるかと言えば「世間を知らん」からです。

板前の世界は狭いし、主婦も同じ事。
いつしか大海が見えなくなる。
世界が分からなくなる。

世界を知らぬと、自分の姿も見失うのです。
あくまでも一介の板前。その分別が無くなってしまいます。

ちょいとチヤホヤされると我を失いふんぞり返る。

チヤホヤ持ち上げる人間など最も信用できず、有頂天の自分を叱ってくれ、見放して離れて行く人間の方が信用に値し、そういう客を持たねばならぬ事を知らない。

どんな田舎の鮨屋であれ、「社長」なる客は必ずいて、そういう客と親しくなりすぎて客商売の基本を忘れてしまう板前がいます。

相手が誰であれ「自分の料理を気に入ってくれた人」、「それをまた食べに来てくれる人」がお客なのであり、その人々は全て大切な客なので優劣をつける事などできないんですよ。

横柄で尊大になれば、いつの日か必ず自壊します。
地道にコツコツやるしかないのが板前なんです。

客商売です。ムッツリと無口すぎるのは良くない。
だがそれよりも悪いのは「客と喋り過ぎる」板前です。

自然体でよい。
無理をして客に話しかける必要はない。
何かを聞かれたら丁寧に返事すればいい。

お客は落語や漫才を拝聴しに来ているわけではないのです。

もしも生まれつきの「おしゃべり野郎」なのなら、残念ですがカウンターに立つ板前としての資格はありません。それを押える訓練が出来ていれば可能ですが。

仕事を施したネタを握って売る。
あるいは皿や鉢の料理を出す。
客はそれを食う。
それが鮨屋ですし、和食屋です。

食せず馬鹿話に興じたいのなら飲み屋に行けばいい。
主人や鮨職人が手を止めて馬鹿話にのるなど、もってのほか。

握った鮨はつけ台の上で冷めている。
そんな店にする為に苦労して職人になったのではあるまい。

極上の魚をメキキできる職人なら、自ずとお客の「タチ」も判断可能です。無駄口は控え、握った鮨は即座に食う。 「レモン」だの「柚子」だの「バルサミコ」だのと変な事は言わない。温かい料理は熱いうちに食い、冷たい料理も速やかに。

そして良質の魚に付きものの「目の力」
筋のよいお客は目に力があるんですよ。

それは単に目がキツイという意味では無い。
深みがあるという事です。

そういうお客を増やして行きたいのならこちらから余計な事を喋らぬようにする。無駄口を叩く暇があれば料理の腕を磨けばよい。

職人と客。親しくなってもそれ以上の付き合いを望まない姿勢であればこそ、お客の信頼を保てるのです。

白い前掛けをきつく締めるのは、着衣を汚さぬという本来の意味を越えて、ヘソに力を入れお客の前に立つ気合いをこめる意味があります。

例え常連さんでもお客さんとはいつでも「一期一会」
馴れ合わず、「これが最後で次は会えない」という気持で精一杯動きたい。



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