和食の原点は  

日本料理と和食と「和風料理」

普段はこんな事考えるなんてことはないんですがね、こないだお客さんから突っ込まれて、改めて考えてしまいました。

「日本料理と和食は何が違うのか」

こりゃいうまでもなく、同義同源同一のモンと考えてよいし、「そりゃ同じもんですよ」って答えて構わないもんだと思います。

だけどよく考えると、違いがあると言うか、まあ人によって異なるんで、「定義」とまではいかないんでしょうが、違いってもんは有るはずです。

おいらが客にどう答えたかっていいますと

「簡単に言えばね、野菜の切り方。イモでもダイコンでも和食は皮を薄く剥くか、剥かなくてもいい。けど日本料理ってのは例えば千切りでも、拍子木切りにするにも、木材を原木から加工して切り出すのに似て、皮を大きく剥いて角に切り出してから細かくするんです。別の言い方をすれば、「もったいない」」よりも形が優先するんです。」

「だから言うなら、和食は縄文から続く、この国の人達が食べてきたこの国の料理で、日本料理ってのは、室町時代に武家が朝廷料理を取り入れだして、本膳の形が出来て、懐石や四条流も完成したこの時代以降の食礼式に則った「作法料理」って言えるんですよ」

「まあそれ以前の平安時代に藤原山蔭が四条流を編み出して、今でも伝統的な店じゃ神棚に藤原山蔭を祀ってますし、その前に奈良時代には中国から食作法を取り入れたりして宮中ではかなり昔から形があった様ですけども、それは和の食ってよりも「日本料理」の流れでしょうからね。」

なんて自分でも分かった様な、分からぬ様なアヤフヤな説明をしましたら、

「それじゃあ、明治になってからの肉料理、スキヤキやシャブシャブなんかはどっちだい?ヤキソバやハンバーグやチキンライスも和食かい?」

「もちろん和食です。舶来の料理だって日本独自の調味料を使い、日本独自の発達をしたもんですから当然和食です。ラーメンだってもう和食の範疇だし。」

「じゃ寿司や天ぷらも、外国で独特な物になっているみたいだけど、そのうちその国の料理になってしまうのかね」

「いつかはそうなる可能性もあるけど、現状だと、海外では「オリエンタルな国ニッポンの和風」が売り物ですから、独自の発達は今のとこ無いでしょう。カリフォルニア・ロールが米国の伝統料理になるなど考えられないし。」

「海外産の料理でも、味噌や醤油や味醂などで味付けしてしまえば「和風」って事かね」

「そうですね、それと調理方法が日本料理独自の物だったら、それも『和風』でしょう。どこに線を引くか難しい話ではありますが。」

曖昧さを含んでるのが『和食』、峻厳な形式があるのが『日本料理』
そう言えるのかも知れません。



和食の原点を別の角度から


日本料理の文献などを読みますと、読後、違和感を覚える事がしばしばあります。
日本の食文化の原点を、奈良、京に始まる宮中料理であるとする本が多いからです。
確かに宮中から始まり、武家社会に権力が移行する過程で、日本料理の形式が出来たといえるでしょう。
しかしそれ以前の数千年を無視してもよいのでしょうか。

おいらは古代の日本人の食を支えたのは、『真菜』
つまり魚だったと思っています。

人々は考えられない古代から、船を操り、漁をしていたんじゃないでしょうか。それ以前も海辺で集落を造り、魚や貝を食べ続けていたと思われます。

それは連綿と引き継がれ、航海能力の向上と併せて、漁師達は船の上で食事を作る様になり、また海辺で漁労する人達(もっぱら女性)も、そこで独自の料理を発達させたと思います。
前者が【沖料理】
後者が【浜料理】
それぞれ独特の趣向を凝らした料理になっていった。

つまり、沖料理と浜料理は別のものです。
これが近年は【漁師料理】として、同じものの様に扱われますけども、その発生過程から考えても別のものと言えるでしょう。

味付けは塩と酢(梅を自然発酵させた)後に、味噌と醤油。
主菜はもちろん魚介。そこに彩りを添える副菜として、野菜類が発達してきた。

ここには形式に重きをおく、貴族御用達の『日本料理』と無縁の世界があり、これこそが大多数の日本人が食べ続けて来た、「庶民の和食」の原点じゃないでしょうか。



礼儀の基本は食にあり


中国との関係がゴチャゴチャしちゃって、感情的に縺れてる感じになってますね。政治的な誘導の臭いがして嫌ですわ。いくら縺れてるからといって、文化的な長い交流を忘れた、短気な敵愾心は何も生み出してくれません。政治は政治といった、次元を分けた考えを持ち、冷静な平常心を失うべきではないでしょう。

板前の中にも差別的な言動をする者が多く、おいらは情けない思いをします。視野の狭さは、料理もさもしくしてしまうでしょうに。大人になって戴きたいものです。

日本料理には実に多様な食作法があり、その作法は緻密で礼を重視した奥深いものです。そして先 輩格である中国料理にも当然、作法が存在します。

北京、上海、広東、四川、と言われますが、大別して北京料理と広東料理に分けられるでしょう。これは言語とも一致してますね。
ですが和食は結局和食であるのと同じ様に、中国料理もけっきょくは一つです。地方色は除外すべきでしょう。

祝宴が決まると、その宴の三日前に、深紅の美しい招待状を送ります。
会食者は早めに到着するのが礼儀で、控室で食卓が整うのを待つ事になりますので、主人は蒸しタオルと茶を出して謝を示します。

そして一卓8人と決まった円形の卓に向かう訳ですが、この円卓に中国人が食事というものをいかに重視してるかが顕れています。
戦争の絶えない長い長い歴史から、食の場は人間同士の輪を繋ぐ大切な場所だという教訓を導いたに違いありません。

ですから会食作法でもっとも忌み嫌われる無礼千万な行為は、争い諍いをする事でして、これは日本料理においても同じですね。
かの夏目漱石が
「会食は5人以内に限る」
「それ以上は無意味である」
そんな意味のことを言ったそうですが、さすがに漱石ですね。

中華、西洋そして和食、込み入ったややこしい食事作法がありますが、その根本的な意味合いは『おもてなし』という事です。その精神が無ければ、形骸化した礼儀作法などは血の通わぬただの飾りにしかすぎません。
結局は『心』なんですね。


Posted by 魚山人 at 2006年



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