疏食を疎にして気は貧す



疏雨疏雨と頬を打つ雫

疏食を疎にして気は貧す
ほぼ例外なく見た目が美しく華やかになればなるほど料理は栄養を失います。
狭義で用いる『日本料理』と称するものより『惣菜』に軍配があがるのは確実でありましょう。

食文化というのは時勢の影響を受けずにはおれません。ひらたく言えば時代とそれに沿った人間達のライフスタイルが反映し凝縮したものが料理の姿だという事です。

おいらは、人生は一度しかなくやり直しはきかないという考え方です。ですからくよくよして生き、猜疑心に満ちた老貌に成り果てて死んで行くのはまっぴらごめんで、努めて明るく楽しく生きる様にしております。それが自分の周囲にいる人間達への責任でもあると信じています。ポジティブに楽観的思考をする。自分をそうコントロールしているわけです。

しかしながら「本音」というものも御座います。ここはそれを書ける場所。だからこそ埒もないこんなブログを数年も続けることができたのかもしれません。魚山人という名であれば誰かに心配をかけるおそれも無いわけですし。

近年は特に注意深く社会経済の動向を注視していました。 2007年末あたりからの金融危機の時に感じたのは「もしかしらこれが最後のチャンスかもしれない」って思いです。

人間社会は水の循環と変わりありません。
大地を潤す命の糧として高きから低きへ流れ大海へと達する。そこで役目を終えることなく蒸気となって天へ昇り水滴へと変じて再び高きへ舞い降りる。その淀みのないサイクルによって生命達は生を維持できます。

我々の世界でその血管の様な役目を果たしていたのが「金融」というシステムです。70年代くらいまでは概ね正常に機能していたと思えます。ところが80年代あたりからアメリカ発で妙な現象が起き始めました。「血液が流れる場所を自分で選び始めた」のです。それが金融派生商品とやらいう名で世を席巻する様になりました。

血が循環しない場所は壊死します。手であれ足であれ腐って死んでしまう。つまりね、血液に選り好みはできないのですよ。だからこそ各国は銀行を厳しく規制していたのです。血を指の先まで循環させるために。

ところが年々巨大になり政治的発言力も強まると、規制をあってなきごとき骨抜きにしてしまい、流れる場所を好き勝手に選り好みするようになってしまいました。
その結果、実業を飲み込んでしまったのです。
実際に肉体・生命を維持している体の各部を自分の思惑でコントロールできる立場になったというわけ。その思惑とは『利益』です。これは考えるまでもなく非常に危険な兆候ですよ。

「左手は右手より利益を生まないので血を止めよう」
そしたら左手は腐ってしまいますな。その腐った左手が仮に鉄鋼業だとして、それが社会の要請が無くなったのなら滅んで行くのも仕方ないのかも知れない。しかしたんに「濡れ手で粟の大儲けはできそうもない」という理由だけで廃業の憂き目をみたとすればどうです。

国(人)にとって必要な産業(手や足)であっても、金融界にとって旨味のないものは次から次へと潰されてしまいます。その先あるものはいったい何です?
大きな儲けだけが目的で流れる血液は循環とは言えず、恣意的な道のりを進む。これが永遠に続くはずはない。バランスを崩した血流はいつか必ず動脈硬化症を発症するに決まっています。

肉体はひとつしかありません。血が自分の好きな場所にだけ流れ込めばいつか血栓を起こすのは理の断り。金融危機は起きるべくして起きたとしか言いようがないですよ。

リーマン・ショックはアメリカと世界にとって大きなチャンスでした。実業が虚業に取って代われるチャンスだったんですよ。小さな政府と自由主義を理想とする米国人は、最初は反応が鈍かったもののAIGの件で世論が沸き、さすがに憤慨しました。

しかしそれから1年・・・・・
はっきりした事はアメリカにとって金融は「基幹産業」だったという事です。いや、世界にとってというべきでしょう。もう規制しようにも出来ないほど大きな存在なのです。大統領が変わっても何かを「チェンジ」できる国ではかったのです。そして日本も同様に官僚主導体制はどうやら不動みたいですな。

今年の年末に、苦境にあえぐ一般の人々を尻目に、億を超える巨額のボーナスを貰えるのは、国家の金でデタラメを尻拭いしてもらった他ならぬ「金融界」の人々であり、あの国民達はそれを黙して受け入れるでしょう。それが今の世の「常識」なんでしょうかね。

清流は海を目指し流れながら生き物に生命を与える過程で汚れもします。しかしサイクルに乗っている以上は大地により大海原により浄化されます。毒水もいつか清らかな水となる。しかしながらそれはあくまでも自然に存在する毒であって、人間は解毒不可能あるいは浄化まで何十万年も時を必要とする猛毒をその自然の循環に割り込ませました。

分解不可能な猛毒。それは「利益至上主義」という名を借りて血液の中にも潜り込んでいるようです。
体(地球)はひとつしかありません。いつかは必ず自らを蝕むと分かっていながら毒をあおり続ける人類は、おそらく「自殺願望」があるのでしょう。

歴史を振り返りますとね、「グルメな時代」というのが存在します。ローマの隆盛時代や中国各王朝やらフランスの王朝やらですな。もちろん昔は上流階級だけがそれを堪能できたのですが。今も形は違えどグルメの時代といってよいのかも知れません。
歴史のグルメ期には特徴があります。時の文明が滅びる直前に隆盛を極めたっていう事実です。

ここのところ雨が多く、しかも降ったり止んだりスッキリしない雨が多いです。このような雨を『疏雨』(そう)と言います。とぎれとぎれの雨はまるで人の世界の将来に対する期待感みたいに頼りない。頬を打つ水滴は心細く、いまにも途切れてしまいそうですが、我々には子供や孫たちの人生に責任ってものがある。放り出してしまう事はできないのです。たとえ雨が止んでしまってもね。

いつの間にか粗食を疎外してはいないか。疏を見失ってはいないか。手前自信が「グルメ」ってモンによりすぎちゃいないか。それを料理で確認する日々です。

2009年11月15日 魚山人


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