パロディと摸倣



パロディと摸倣の違い

有名なお菓子「白い恋人」
それを真似て売りだしていた吉本興業の「面白い恋人」

「白い恋人」の製造元【石屋製菓】がたまらず提訴。
吉本側の販売差し止めを求めて争っていました。

先日、和解が成ったとの報道がありました。

吉本興業側は「これはパロディである」「これを禁止すればお笑いの衰退につながり、ひいては文化の後退になる」と主張して争っていたそうですが、どういう訳か急に「折れた」ようですね。

この件、自分は吉本側に非があるとみます。

1:「あやかる」と「もうかってまっか?」

日本には昔から「あやかりたい」という言葉があります。

ルーツは大自然や神々に対する畏敬の念ではないか。
ところが、ご存知のようになぜか日本人は心の底から信仰心を持っている人が少なく、本質的には「無宗教の国」

それが因子なのかどうかは分かりませんが、「あやかる」も即物的なものへと変化しています。

すなわち、経済的に成功したいわゆる「長者」に対しての賛辞となっているのであるが、その心は【分け前をよこせ】だと看破します。
(長者ばかりではなく、文化的な成功者を指す場合もあるが、それは結局成功に付きものである金銭的豊かさを見ているのものであろう)

しかし、当然だが長者等成功者をそのまま模倣してもまず失敗するもの。(ここ掘れワンワンですな 笑)
多くの場合「二匹目のドジョウ」はいないのです。

2:コピーだらけ

ところが人間の社会は「大量販売・大量消費」という仕組みを創りだしてしまった。

この「仕組み」はね、ある側面から言えば「コピーの爆発」です。
というか、前提ですね。コピーしなきゃこの仕組みは成立しない。

今ではもう右も左もコピーだらけ。
いうなれば二匹目のドジョウだらけなんですね。

このような世界では、最初にドジョウを捕獲した者よりも、それを真似した者の方が儲かるということになります。

3:学習する者と真似っ子の違い

だからといって「オリジナルの価値」が消えることはありません。
難しい事をいうと、「コピーだらけだからこそ、本物が光る」

「子供が何人いても親は一人」

すべては摸倣から始まります。
人間が親の遺伝情報を模倣して誕生するように、あらゆる物は何かをベースにしているもの。

しかし、ベースは同じであっても独自の進化をとげる。
この「独自の進化」という点が分かれ目になりましょう。

そして、「子は親を選べない」という点。
自然界では摸倣の限界というのがある。

もしも「子が親を選べたら」どうなるのか?
少子高齢化なんてモンじゃなく、すぐに人類は滅亡。
数世代で種を維持することのできない程の人口減少に。

社会でも同じだと思いますよ。
自然界に存在する「摸倣の限界」をこえる。
そうすれば、【新しいものは何も生まれなくなる】でしょうね。

すぐに同じものが氾濫してしまうのなら、「生まれる意味」がないからです。

どんなに珍しい色粉でも、プール何杯もの水で薄めれば、色もなにも消えてしまってただの透明な水。

ペンペン草も生えない荒野。
荒廃した砂漠のようなアリサマ。
それが新しいものが誕生しない社会の末路です。

社会を老化衰退させない為に、そして文化とやらを維持していくためにも、「オリジナルの値打ち」を守っていく仕組みが必要なんじゃないでしょうか。

学習することを禁じてはいけない。
しかし単なる摸倣(コピー)は学習ではない。
そう思いますね。

4:パロディは詭弁

吉本の「面白い恋人」が「白い恋人」のパロディではなく、「摸倣」にすぎないと思う理由はね、ただの「商売」だからです。

「いちびり」とか「パロディ」と、「摸倣」の差。
それは【批判精神があるか無いか】です。

【ビートたけしのパロディが吉本にはない】

パロディやブラック・ジョークや風刺を明確に分けることは困難で、これらは渾然一体としています。

しかし、必ず共通するものがある。
それは【攻撃対象】が存在していること。

チャップリンの『独裁者』という歴史に残る名作があります。
この映画は風刺がテーマのようにいわれますけども、それだけならばチャップリンが「ヒトラーの真似」をしてちょび髭をつける必要はないし、コミカルな動作をする理由もない。

あれは、「ヒトラーとその残虐な行為を見逃した世界」を攻撃対象にした完璧なパロディです。チャップリンが天才だからできた技。

【対象】への暗喩・隠喩(メタファー)

ビートたけしが全盛期に披露していた漫才。
彼は全然笑わず、むしろ怒った顔のままで観客を笑わせた。
それはおそらく「対象」への「攻撃力」を維持するためでしょう。

対象への愛憎は無関係です。
たとえ「笑わせる目的」であっても、パロディの本質は攻撃だと思いますね。それだからこそ人々は笑うのですよ。人間の暗い本質を、皮肉に、そして投げやりに、また、あざ笑う様にね。

吉本興業が石屋製菓を「批判」、ましてや「攻撃」しなきゃいけない理由はなんです? そんなものは存在しないからこそ、パロディではなく摸倣なんですよ。

ひいきめに見て、「超有名な銘菓」の、その有名ぶりをあざ笑うジョークだとします。

だが、それを真似して「売り出す行為」を「パロディ」だと言い逃れるのは無理でしょう。

ましてや吉本は個人ではなく、大企業なんです。それを「文化」と言うのはどう考えても無理。それが認められるのは、そのパロディ菓子の売上をすべて石屋製菓に渡す場合だけでしょうな。

2013年02月20日 魚山人


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