長渕剛の唄



長渕と「うるせえ世の中」

「幸せになりたい」
「でも」
「もう誰も信じない」

酒の香りのする場所でそんなセリフを背中に受けて思わずうつむく時、連想するのは長渕剛の「祈り」です。そしてテメェの好きだった女を想い出して「何の矛盾もない」の歌詞が頭でリフレインします。

昔は長渕といってもフォークの生き残りの線の細い奴くらいの認識しかありませんでした。「おや?」そう思ったのは「逆流」あたりでしょうか。

「この男を誤解していた」それがはっきりしたのは「西新宿の親父の唄」を聴いたときです。唇を噛締め、下を向いてしまう、そんな曲が作れる男だと知りました。

この下らなねぇ世の中でモチベを維持して生きるのは骨がおれます。ハンパじゃなく疲れる。死ぬほど疲れる。でも死んじゃいけねぇ。人間はどうしようもないクズだけど、でも死んじゃいけねぇ。薄汚ねぇ人の本性の中にこそ光るモンってのがある。長渕はそれを謳っている。

幸運の女神はムラッ気で浮気性
どんな魅力的な人間でも彼女の関心を引き留めるのは不可能だし得策ではありません。毎日彼女の門を叩くのは賢いとは言えない。追えば逃げるだけ、嫌われるだけ。その反対に貧乏神はコレと見込んだら尽くすタイプ。惚れたら簡単に離れやしねぇ。 そんな訳の分かんないモンに人間の人生は右往左往させられる。

確率論ってやつですか。
でもね、そんな頼りないやつに一度しかない人生を左右されるのはたまんないですよ。

たとえそれが真理だとしても、ソイツを「生きざま」ってやつでぶち破る。クソクラエの根性、たゆまぬ努力、そして素直な心、歪んでない精神。幸運の女神も貧乏神も糞喰らえですよ。

てめぇの力で引き寄せるしかない、それが本当の幸せってやつです。

頑張りもしねぇで何かのはずみで身に余る幸運を手に入れる奴もいるでしょう。確率の範囲で世の中はどんな事でも起こります。努力もなしで幸運の女神に好かれる者もいる。

でもよくしたもんで誤魔化しはきかないもんなんですよ。

人間は50を境にどんな生き方をしてきたか全部「ツラ」に出てきます。ナメて生きてきたのか真剣に生きて来たのか。全部ツラガマエに出てるんです。手前の薄汚いケツは隠せねぇのに、しゃあしゃあと紳士淑女ズラを作ってみても無理ってもんです。

年齢を重ねるごとに良い面構えになっている長渕はそれを証明しているんじゃないでしょうかね。彼は醜聞も色々過去に出ている。「イイヒト」とはいえないでしょう。でもだからどうしたっていうんですか。

人はけしてキレイなモンじゃない。ドロドロした心根は押えても押えても湧き上がってくる。聖人君子なんぞいやしません。いたとしてもそんな人間をおいらは信じたりはしないでしょう。

ヒトは誰でも折れやすく痛みやすい。そんな心を前提として認め、そいつをね、顔にシワを増やしながら、唇を噛みながら振り払い、必死で生きてる人間が好きなんですよ。一生懸命生きてる奴が好きなんです。

(長渕剛が一生懸命生きてきたことが痛いほど分かる曲  Myself

小賢しい連中ばかりが幅をきかせる世の中ですが、頭の悪いおいらは小利口に生きる道を選べず、板前なんてガサツな生き方をするしかなかった。でも後悔はしていません。自分に出来るだけは真っ直ぐ生きた。それが思い違いかどうか分かるのはもうすぐです。洗面所の鏡に映る手前のツラが教えてくれると思っています。

妙に小洒落たウルセェ世の中が何十年も続いて来ましたけどね、

人の魂なんてのは時代で変わるもんじゃない
人の魂ってのは長渕が歌っているような事ですよ

その昔、東京の真ん中を突っ切る電車に乗って北西に向かったもんです。そこには大好きな女の子がいたからです。彼女は西の方から東京に出て来たばかりでした。

今でも安酒を握り締めた時に思い出し、



たまらなくカラオケで歌いたくなる曲は長渕の「東京青春朝焼物語」です。


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手前板前.魚山人:The person who wrote this page筆者:文責=手前板前.魚山人