浜田省吾と紅白



浜田省吾と紅白、川島英五

年末にチラホラ流れた噂によりますと・・・・

「今年の紅白はサプライズでハマショーが出るらしい」

おいらは即座に「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ。ありえねぇ」
そう思いました。

なぜかというと、紅白に出ることにより、浜田省吾は長い自分のキャリアを「全否定」することになるからです。

分かる人はわかると思いますが、日本のテレビ番組というのは「虚構」
真実は何も反映していない「つくりもの」でしかありません。

たんなる作り物であればまだいいのですが、NHKの場合「偽善の押し売り」という気味悪い雰囲気をどうしても消すことが出来ないし、押し売りだとも思っていないアナクロニズムがある。

まあ、「年末の風物詩」として家族で楽しむ娯楽としての位置を否定はしませんし、日本人が年をまたぐ区切りのようなものであることは確かですけどね、紅白歌合戦ってのは。

だからといって「胡散臭さ」が消えるものではありませんわな。
ある意味で「偽善で成り立っている日本社会の象徴」ともいえるイベントですから。

少なくもと浜田省吾が人生をかけて歌い続けてきた「真実の欠片」みたいなものとは正反対なのですよ。
いうならば「嘘の継ぎはぎ」「みんなでぬるま湯に浸かりましょう」という趣向が紅白なのですから。

もしもハマショーが紅白に出演したら、落胆するのはハマショーのコンサートに行く熱心なファンです。それを誰よりも知っているのは浜田省吾本人。だから出演はありえない。そう思っていました。

結果は・・・
「やはりハマショーは本物の男であったなぁ」と。

別に、紅白に出演する事自体を否定する気はないんです。
大好きな中島みゆきも出てますけど、それで「裏切られた」なんて馬鹿な感想を持つことはないですし。それはハマショーも同じ。

歌手としては出たいでしょうし、出るのは名誉でもあるでしょう。

ファンとして興味があるのは「歌手本人の気持ち」ではないんです。
あくまでも【歌の内容と世界観】
それが全てであり、本人には興味が無い。
それが芸を愛することだと思っています。

ハマショーはいつだって「ありのままの真実を剥ぎとってそれを歌詞にしてきた」のです。
そしてその芸に値打ちがあると、本人もファンも理解している。なのでハマショーはテレビに出なくてもビックであり続けてきた。

「歌にこそ価値がある」
昔からそれはまったく変わらない。

「ありのまま」と言ってもディズニーのお姫様のような虚構ではない(笑)

なんで近年の紅白、いや歌謡界には、人の心を捉えてしまう曲がまったく無いのか。それはディズニーのお姫様と同じですよ。

まるっきり【リアリティー】がないからです。

人々はお城に暮らすプリンセスではない。

本当の生活
本当の悩み、本当の苦痛、本当の喜び、リアルな愛
そういうものをまるで感じることが出来ない。

聞き取りづらい発音で、意味不明の念仏をブツブツ。
ラップか何か知らねぇが、何を言いたいのか理解不可能。

そして、心がドコにあるのかまったく分からぬ歌詞。

このままでは誰も新しい歌を聴く人はいなくなるでしょうな。
懐メロしか聴く値打ちはないと。
それは今年の紅白をみれば明らか。

薄汚ぇ欲望が野放し状態で、正常な感覚を保つことすら難しい今。
そうした欲に負けて他人を傷つけている人間にでも、やはり「人間だった時代」があるはずです。

そういう「人間だった時代」を、見事までに剥ぎ取って一つの曲にしてしまう「名人」が浜田省吾なのです。

『19のままさ』

40になろうと、50になろうと、60になろうと、そして80になったとしても。おいらは女房が可愛いし、愛する気持ちが衰えることはないでしょう。それは何故なのか? 自分でもよく解らない。しかしハマショーはそういう感情さえも整理してくれる。

次の曲をきいて、自分がなぜこんなにも女房を愛しているのか、それが理解できました。

『星の指輪』

逝ったもう一人の「男」

新宿あたりの小さなハコで、穴が空いて擦り切れたジーンズを穿き、尖った目とやるせない心を抱えたまま、川島英五のコンサートを見たのは、もうどのくらい昔になるんでしょうか。

飾った世界に流されず
人の心をみつめ続ける
時代おくれの男になりたい

『時代おくれ』

『野風増』

『てんびんばかり』

『何かいいことないかな』

『酒と泪と男と女』

2016/01



 

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手前板前.魚山人:The person who wrote this page筆者:文責=手前板前.魚山人