長らく信じられてきた縄文時代の時間軸、そして、弥生時代が始まったとされる時期、こうした教科書に記載されている「半決定事項」が、近年の新たな発見によって次々に疑問視されるようになっています。
縄文期はもっと早く始まっていたのではないか?
弥生時代の草創期は三千年前ではないか?
コメは五千年前に日本に来ていたのでは?
こうした問題も、地道に研究なさっておられる専門家達が、時間をかけて解いていくでしょう。
いずれにしましても、「結論を出すのは早い」
そういう事でしょうね。
歴史は今までに発見された証拠から推論するしかないのであり、『未発見の証拠』がこれからも出てくるでしょうから、「こうだ!」と断定できることはあまりないと考えるのがよいかと思います。
自分は歴史学者ではなく、市井研究者でもなく、好事家でさえもありません。ロクな知識もない一般の日本人です。しかし、そういう者の視点だからこそ面白いモノが書けるだろうと思い、これを書いています。
後世の農耕民よりも豊かな食生活
作物の収穫に依存する農業は、旧石器時代人からみれば安定した豊かな暮らしを約束する夢の様なシステムであって、実際に農業革命が文明を開花させたのは事実でしょう。
しかし、いざ「飢饉」になると、作物へ依存度が高いゆえに、食べていく手段が皆無になり悲惨な事態を招く。飢饉の悲惨さは後年の歴史が証明するところです。
本格的な水稲耕作が始まる前の縄文人はどうだったのか。彼らは狩猟・採集・漁撈によって食べるものを得ていました。
これを「原始的」とみなすべきかというと、まったく違います。非常に合理的で、「グルメな生活」をしていたのですよ。
自分は、縄文人こそバランスのとれた食生活をしていた本物の美食家であったと考えています。
学者の推定によれば、縄文時代の日本列島の人口は多い時期でも30~40万人、少ない時期は10万人以下。先々この数字が変化する可能性は高いにしても、今はこれを信じるしかないでしょう。
この人々が美食家とも目される食生活を確保できたのは、煮炊きができる「縄文土器」を発明したからです。これによって、旧石器人が見向きもしなかった動植物を食料として利用できるようになったのです。
その代表が、海辺にある貝類。
当時は無尽蔵といってよいくらいの貝類がゴロゴロ存在していたでしょうけども、「ボイル」という手段がなければ、たんなる石ころと同じです。
極めて優れた栄養素を含有する貝類が、縄文人にとってどれほど大切な食料であったかは、今も各地に残る縄文貝塚にある夥しい数の化石からも分かります。
食べていた貝の種類はおよそ350種以上。
原始的な栽培もしていたと思われる栗、それにシイ、ブナなどの木の実やヤマイモなどの山菜はアク抜きしなくても食用可能でしたが、土器による水晒しアク抜きによってカシ類や一部の山菜が食用可能になり、さらにボイルによってナラ類、トチ、クヌギ、カシワなども食べられるようになります。
なによりも、簡単に入手できるドングリが食べられるようになった事が大きな変革をもたらしたであろうと容易に想像できます。
・土器製作法の発見=食の多様化・安定化
これが、洞窟暮らしから脱して「イエ」に住むようになったきっかけになったのではないか。
形成しやすい粘土を使って作った、食料の貯蔵庫にする「穴」や「容器」を持っていて、ある時その食料を「焼こうとした」のかも知れません。
加熱によって粘土が変性し、水を通さない器になっていることに気づく。
このへんが土器の始まりでしょうね。
先ほどの貝類数百種類に加えて、植物性の食料がおよそ60種類。
元々の主食であった哺乳動物は60種以上。
鳥類が約40種。
さらに、魚類は70種以上。
魚類で目につくのは「フグ」の多さです。
人を殺傷する猛毒魚であるのに、執拗なくらいフグを食べ続けておるんですね。このへんにも「美味を理解していた食の求道者」たる気配を感じます。
もちろん食料はこれだけではなく、見つかっていない(遺存していない)ものを含めれば、この2~3倍以上になるでしょう。
こうした食料の多様性が、結果的にシカやイノシシといった貴重で「大好物」であった資源を、むやみに減らさない「保護」になっています。
それはつまり、「何か一つに頼らない」という意味であり、作物の収穫のみに頼るしかない農耕民よりも豊かであったと言える側面なのです。
昆虫や土に至るまで、好き嫌いすることなく何でも食べていたのが縄文人で、こうした「偏りのなさ」も資源保護に繋がっていました。
さらに言えば、こうした食料は「完全に天然物」ですので、それぞれに「旬」が決まっていて、必然的に、最も美味しい季節に食べる事になります。
季節ごとに出現したり消滅したりをする食料資源を「まわす」ことで、年間を通じて食べ物の不足から解消されるとともに、「美味しいもの」を食べる結果になっていたのですよ。
こうした「バランス感覚」があったからこそ、縄文時代は異様なほど長く続いたのではないでしょうか。
【リサイクルする持続可能な文明】ですな。
それが「100世紀」というあり得ない数字の意味かも。
原始農業というか、イネ・オオムギ・ソバ・アズキ・ダイズ・アワ・ヒエなども既に栽培されていました。もしかしたら7~8000年前の水稲の遺構も今後どこかの地域で発見されるかも知れません。
※こうした多様性の副産物というか害というか、縄文人は非常に虫歯が多くて悩んでいたようです。
(抜歯した化石骨が多く見つかっています)
肉食がメインの狩猟採集民であれば、通常は食事が「歯磨き」になるので、あまり虫歯にならない筈ですが、上の様な食性になっていた縄文人は、自然と「炭水化物多め」の生活になっていたのです。このあたりは「やはり日本人の祖先だ」と言うところでしょうか。
縄文人の「人間性」
哺乳類のほとんど全てを食料にしていた彼らですが、早期に家畜化していた「イヌ」だけは食べていません。
縄文地層から発見されたイヌの化石は、ほぼすべてが「人のように丁寧に埋葬」されたものばかりです。つまり、家族の一員のような存在として扱っていたということです。
イヌを食べるようになるのは、大陸系の弥生文化以降になってからのことです。
縄文式土器とともに縄文人の特性を示しているのが「土偶」です。弥生文化に追われるように消えていき、「縄文最後の地」である東北地方を最終地として消滅している土偶は、まさに縄文のアイデンティティと言えるかも知れません。
前の記事にて「土偶は女性を象徴している」と書きましたし、女性が特別な存在であったのは確実だと思いますが、早期から晩期までの土偶を眺めていて正直思うのは「これはヒトではないだろう」と。
「人間の形に作った人間でないもの」
そういうふうに感じます。
自然に宿る精霊、妖怪・妖精。
ようするに原始信仰ですな。
後年になって仏教が広がったときに、ある種の人々は憑かれたように「仏像」を作り始めた。仏陀や周辺の人々を形にしたものだが、実は「仏に見えて仏ではない」のが仏像。
そのようなものだった気がします。
まぁ、たかだか千数百年前に造られた(とされる)イースター島のモアイ像でさえも、「何なのかさっぱり分からない」のですから、その数千年前の縄文土偶は、それこそ「縄文人に訊かないとわかる筈がない」ですけどね。
各地で発見された縄文の環状列石
夏至・冬至を示す環状列石(ストーン・サークル)が見つかっており、太陽の運行によって時間や季節の概念を暮らしに導入していた。「カレンダー」があったのである。
既に存在していた通貨経済(?)
翡翠の珠を富の象徴にしていたらしいが、各地に広く拡散している点などから、実質的に「通貨」として用いていた可能性も伺える。
【文字】は本当に無かったのか?
縄文という語の由来になっている縄文式土器の縄目文様は、研究者によって、縄を回転させて描いたものであることが分かりました。
最初期の縄文土器は、土器以前に使っていた容器である樹皮で編んだ籠や獣皮製の袋を模したものと思われ、籠の網目模様をそのまま土器にも描いたのだと考えるのが自然です。
しかし、模様はどんどん複雑化していき、一言では説明できないような形態へと変化しています。
自分は、「これは象形文字ではないのか」と考えることがあります。こうした複雑な文様は、何らかの意思伝達機能を持っていたとしか思えないからです。
火炎土器などの装飾は何を表現してるのか
刺身の盛り付けルールに見られるように、日本には伝統的に「三、五、七」の数字を重視する文化が今でも残っている。これはいつから始まったものであろうか。
この原点とも言えそうなものが縄文土器四期あたりに出現している。土器の装飾に「三、五、七」の数を使用しているのである。
初期の縄文土器装飾は「2、4」が通常であったものが、どういう理由から「三、五、七」の数を崇拝するようになったのか。特に多用されていて、強く崇めていたらしき数字は「三」です。
もしかすると、【鼎】の文化が移入したのものではないでしょうかね。中国大陸からです。
縄文時代は色々な民族が「多数のクニ」を形成し、それぞれのクニが並立していた時代だった
先史時代の地球は「狭かった」という気がします。
様々な交通手段を持つ我々からみた「初期のホモ・サピエンス」は、徒歩しか移動手段がないゆえに世界はとてつもなく広大であった筈だ、と思い込むのが普通です。
しかし我々が想像するよりも遥かに、彼らは広大な世界を自由かつ迅速に移動していたのではないか。少なくとも、南北アメリカを除くアフリカやユーラシアはそうだったと思えます。
数十年、数百年の間に、アフリカから日本列島まで「文化が伝達」する程のスピードがあったということです。もしかしたら、「世界航路」もあったかも知れません。
農業と文明が始まった時期が各地で重なっているあたり、「玉突きのようにあっという間に世界に広がった」と見ることが出来るのですよ。
農業革命は、約8千年前くらいに、世界各地でほぼ同時期に始まったと思います。
水稲が揚子江下流域で始まったのも8千年前くらいであり、それは僅か数百年で縄文の日本にも伝わったと考えます。
そして、稲作農耕で暮らす「クニ」が、日本のどこかにあったと思います。
ただし、それは一つの小さなクニでしかなく、「縄文時代の日本」という括りとは別の話です。