縄文の盛衰~日本人とは何なのか(5)  

縄文とは何だったのか

固定観念というものを払拭するのは大変です。
大変というよりも、通常の場合は「まず無理」と思っていいかも知れません。

人は誰でも自分が習い覚えた範囲内で物事を判断するしかなく、知らないものをどう捉えたらいいのか迷うのが当たり前だからです。

この時の「迷い」「躊躇」をどうするか?

それによって人物の能力、本当の意味での「頭の良さ」が証明される。自分はそう思っています。

つまり、【詰め込みによる優れた記憶力】は本物の優秀さではないと考えているのです。

知らないことに「どう対処するか・対処できるか」こそが人間の優劣を決めるのであり、それはいかに膨大な知識を詰め込んでいても同じなのです。

未知に遭遇した時、「神の仕業に違いない」
そういうふうに思考停止をするのは、知識の多い少ないではなく、「人間としての力の無さ」が原因なんですよ。カルト宗教の信者にエリートと称される人々が少なくない事実もそれを証明しています。

「どうするか」を処理する能力というのは、的確な判断・決断力と【豊富な想像力】で決定されるでしょう。

それを育成するのは「好奇心」と「経験」です。

好奇心は鋭い観察眼を伴う。
観察力を保持したまま経験を重ねて行くと知恵が深まっていく。

こうした事を「ピュア」だとします。
これにプラスされるべきなのか公正な視点。
正しい心のことです。

「ピュア」+「フェア」
イコールがすなわち【人間力】であり頭の良さであり、そして優秀であるという事ではないでしょうか。

前者だけ優れていても後者が皆無であれば、身の毛のよだつ冷酷な殺人鬼になってしまう可能性もありましょう。捜査の網に掛からず機械のように正確に犯罪を犯す者は知能だけは高いでしょうからね。良心の欠けた優秀さは害毒です。

人間力に優れた人というのは、例外なく想像力が豊かです。そして想像力は創造力に直結します。

マル子氏に「頭が良いと思う職業は何?」と尋ねますと、「理論物理学者、天文学者、数学者、歴史学者、デカルトクラスの哲学者、音楽家、SF作家」という答。

「まさに」ですな。
想像力がモノをいう職業ばかりです。
共通しているのが「手でつかむ事ができないモノを仕事にしている」という点ですね。

おそらくこうした分野で世界的に名をなす人物というのは、幼少の頃から好奇心が人一倍強かったのではないでしょうか。そして観察眼も確かだったのでしょう。

こういう人々と、本質がよく似ている者達がいました。我々が知っている人類文明の「前に」存在した人類

想像を絶するほど厳しい自然と、天空に広がる星々を「観察」し、容赦のない気候変動に見舞われても、滅びるどころか、僅かな期間で、しかも「徒歩によって」地球全土にまで広がったミトコンドリア・イブの子供たち。

我々の祖先である縄文人もその一部です。

 

縄文人はどこから来たのか

縄文image

従来の考古学に加え、古人骨や石器などを分析する「形質人類学的」、ミトコンドリアDNAやY染色体DNAによって遺伝的系統樹を描き出した「分子人類学・人類遺伝学」などが個々に導き出した”日本人の始まり”をまとめて簡略にすると、概ね以下のようになります。

①、アフリカで現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生。

②、①の集団のうち一部はサハラを南下し、一部は南下しなかった。

③、南下しなかった集団の中から、およそ6万年前頃に「ハプログループDE」と呼ばれるグループが分化(場所はアフリカ大陸の北東部)

④、ハプログループDEはさらにDとEに分化し、Dのグループは紅海を渡ってアフリカ大陸からユーラシア大陸へ移動。

⑤、Dの集団はさらに分化を繰り返しながら、北回り、南回りで東進を続け、やがて日本列島に到達。一部はアメリカ大陸へ渡る。

⑥、彼らが日本列島に至ったルートは、当時は陸橋によって繋がっていたと思われる北と、島伝いに北上可能な南、加えて長江沿岸から海流で渡れる九州西岸であり、このルートは縄文末期に稲作が伝播したルートとほぼ同じかと思われる。

⑦、彼らが日本列島の住民になったのは約3~4万年前であり、当地において徐々に特有の形質に変化していき、比較的低い身長、二重まぶたの大きな目、濃い髭、彫りの深い顔が際立っていく。原日本人の誕生であり、彼らは縄文人と呼ばれます。

縄文人は人類のY染色体分類によると、Dから分かれた「ハプログループD2」とされる人々であり、現在の日本人も約3分の1はこのD2であるとされています。

D2は日本列島のみでしか見られず、近隣のアジア諸国にも殆ど存在しないことから、数万年の歴史を持った「原日本民族」だと考えていいのかも知れません。

※それ以前、4万年以上前に存在していたかも知れない【旧人】と、さらに昔の【原人】については、これまでに確かな化石骨などが発見されていないこともあり除外。
(◯◯原人として世を騒がせた古人骨等は、後の調査で殆どが原人ではなく旧人か新人のものであったことが分かっています)
現代人と直接つながるホモ・サピエンスについての①~⑦です。

この縄文人が主役であった「縄文時代」というのをどう考えるかです。

石器の形態変化などから、おおよそ1万7000千年前から始まり、約3000年前の弥生時代移行期まで続いたとされる縄文文明。

「文明」と呼ばれるに相応しい時代に突入したのは、おそらく1万2000~1万3000年前くらいでしょう。つまり、最終氷期が終って「地球温暖化」が始まった時期です。

それまでは、マンモスやナウマンゾウなどの大型獣を追う狩猟民であり、小規模な集団がバラバラに生活していただけでしょう。

ところが温暖化で環境が激変。日本が大陸から切り離される程の大変動です。気候は短期間で変化し、植物相も変わってしまい、マンモスなどは絶滅してしまう。

こうした「大ショック」は、ヒトの進化を促します。
大勢の人々は環境の激変に適応できずに滅びてしまいますが、一部は生き延びて、新たなる「能力」を身につける。

昔風に言えば、旧石器から新石器に移行したということで、まず道具類が様変わりして、より複雑高度化する。

そして、食性も変化するのです。
狩猟がメインであったものが、落葉広葉樹林と照葉樹林の広がりもあり「狩猟採集」になる。大型動物が減った分、食性を多様化させるしかなかったのでしょう。

これが定住化を促し、動物を追うキャンプ式移動生活から、小集団がいくつか集合、竪穴住居という「イエ」と、ムラとか邑のような小さな「クニの原型」を形成させるきっかけだったと思われます。

狩猟や漁労もし、木の実などを採集もする。
かなり早い段階から原始的な稲作もしていたかも知れません(水耕は弥生時代から)

地球環境の激変が、縄文人を定住化へ誘い、それよって「社会」と「文化」が誕生したわけです。

もっとも安定して確保できた食料は「ドングリ」だと考えられています。狩猟採取といっても確実性はなく、食料の不安定は最大の懸念。採集が簡単だったドングリは、必然的に後世のコメのような主食に近いものだったのかも知れません。

ところが、ご存知のようにドングリはアクが強く、そのままではとても食べられません。
この解決法として彼らが生み出したものが、世界最古の土器である「縄文式土器」です。

つまり縄文式土器の原型はドングリのアクを抜くための調理器具だったわけです。
これによってヤマイモ、ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ノビルなどの植物も食べやすくなり、さらには漁労によって得た魚もこれで調理していたのでしょう。

すでに1万年以上前からこうした暮らしをしていたのです。(福井県鳥浜貝塚から出土した調理用と思われる土器は約1万1千~1万5千年前のものだった)

縄文時代を考えるときに想起せざるを得ないのは、その「長さ」です。8000年から1万数千年も続いているわけで、縄文文化というのは、実に【100世紀以上】もの長きに渡っているんですね。

昔の学者などは、縄文人をたんなる原始人扱いするのが常套でした。その根拠は「何も残っていないから」というもの。とくに「文字」と「巨大建造物」がまったく残ってない点がそういう見方をさせるのでしょう。

現に世界最古という土器が多数見つかっており、その土器の特徴から「縄文」という名称で呼ばれているわけですし、他と比べて知能が劣っていたと考える根拠などはありません。むしろその逆だったのではないか。

世界史のどこにもない、異様なほど長い長い期間続いたこの時代、一貫して「原始人のままであった」という考え方はちょっと変でしょう。

エジプトや黄河文明のように「確たる証拠」が残っていないにしても、100世紀もの間文明といえる程のものがなかったというのは少し違和感があります。

エジプト、メソポタミア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、どの世界文明を見ても「繁栄はきれいさっぱり消え去り今は当時の面影が無い」わけで、縄文期と後世の日本も「連綿とつながっている」ことはなく、完全に断ち切れたと考えるべきでしょう。

高度な文明があったとしても不思議ではない。

まぁだからと言ってムー大陸とか、そういった超古代文明を思い浮かべるのは「妄想」とか、良くても「SF」だと思いますけどね。再現性のない事象や、誰が見ても変化することのない物的証拠がないものは、いくら言ってもオカルトにしかなりません。

ローマが典型ですが、いかに優れた文明でも「文明は千年で滅びる」と云われます。
だとすれば、縄文は10回近く文明が勃興した可能性がありましょう。優れた文明が起きたが、千年ないしそれ以下で滅亡し、先の文明は忘れ去られ、山野に埋もれてしまう。列島のことですから、「海の底」に消え去ったという可能性も高い。

それは希望的観測というか、現段階では夢想に近いものでしょうけども、これから先証拠が出てこないと決めつけることも出来ません。

であるにせよ、1万年もの間、動物の毛皮や編布・網衣の貫頭衣だけを着ていたなどと考えるのは妙なものです。サルではなく、土器を生み出している人間なのですからね。千年紀を10回繰り返しても何の進化もなく同じというのは無理な考えでしょう。

縄文の終わりと弥生の幕開け

今から2300年前、あるいは3000年前、大陸から本格的な農業が渡来しました。稲の水田です。

弥生時代が紀元前3~4世紀頃に始まったというのは従来の歴史学の常道であり、様々な学問的見地からこのあたりだろうとされてきましたし、今もこの見方をする学者が多いようです。

3000年前、つまり紀元前10世紀頃だったというのは比較的最近の考え方ですが、自分はこちらを支持します。

農業が渡来したと書きましたが、もちろん「農業だけ・稲作だけ」が来るわけがなく、稲作技術を持った誰かが来たということです。

この「来た人々」が弥生人(渡来人)だとされており、おそらくは大陸からの人々です。

これが紀元前3世紀頃だとすれば、面白いのは秦の始皇帝が遣わしたとされる徐福の伝説とピタリと時期が重なりますし、『史記』の記述によれば「若い男女数千人と技術者を数百人、そして五穀の種」を携えて船出をしたとされます。

これは集団移民に他なりません。
本当に始皇帝が不老不死の仙薬を求めてこれほどの人員を送り出したのかどうか分かりはしませんが、『史記』の正確さは有名であり第一級の歴史資料で、しかも近年になって徐福の実在を思わせる中国の田舎町が見つかったりしています。それに日本各地に徐福渡来の伝説が非常に多いのも見逃せない。完全な伝説というわけでもなさそうです。

しかしながら、自分は3000年前に稲作が来た。
つまり弥生時代は徐福よりも何世紀も前に始まったと思います。

縄文の日本に稲作を携えて来た集団。
それは、紀元前11世紀に周に滅ぼされた【殷王朝】の末裔ではないかと思うのです。

中国の歴史は「三皇五帝三代」から始まったとされますが、三皇五帝は伝説の類であり、三代の「夏・殷・周」も周以前の王朝は長らく幻だとされていました。

しかし、日清戦争が終った頃の北京で発見された甲骨文字の研究から殷墟が発見され、その実在が確実なものになり、ここでも『史記』の正確さが再評価される結果になりました。

紀元前17世紀頃から漢王朝に匹敵するかそれ以上長く続いた大王朝である殷は、素晴らしい文化を築きながらも王朝末期には「紂王」という暴政を行う暗愚が出現したりして、やがて弱体化し、紀元前11世紀頃に周によって滅ぼされてしまいます。

滅亡した殷の人々は、食べるために行商人になって各地を点々としたため、殷の人は商人と呼ばれるようになります。(殷が都を構えた地名が商であったことから殷は商とも呼ばれていたとされ、後に行商人になった事などから、今の商人という言葉の語源になった)

自分は周に滅ぼされた殷王朝の中核をなす人々が、日本へ落ち延びたのではないかと考えます

そう考える根拠などは次章に譲りましょう。

後記

歴史における固定観念の一つに、「昔の日本は閉ざされていた」という見方と、「長い長い間変化が起きなかっただろう」という考え方があります。

しかしね、「サルに近いホモ・サピエンス」が、アフリカを出て僅か数万年で南米大陸の先端まで行っていると今の科学は証明してます。

そういうアクテイブな動物が、日本列島のような「小さな場所」で3万年もの間じっとしていたと考えるのは変です。

ましてや国境という概念などを持っていない古代人ですから、それこそ「グローバル」が当たり前だったのではないか。

少なくとも、毎年のように途切れることなく外から流入してくる人々がいた。そう考えるのが普通ではないでしょうか。

精神世界に限って言えば、むしろ現代よりも古代の方が国際的だったのかも知れません。

そして、縄文、弥生、古墳、そういうふうに年代を区分けしているわけですが、それは現代人から見た一方的な時代区分であって、実際は突然縄文から弥生に変化したわけではないと思います。

ゆるやかに、そして時に激しく、曖昧模糊とした混沌さを内包したまま、次の歴史時代へ移行していったのでしょう。

2014年04月16日

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