客商売は蕎麦の味 


客商売は蕎麦の味

☆食べ物商売・「革新」への脱線

飲食店は『保守的』なもんだと考えています。
「新しいもの」を否定するわけじゃありません。
だが「新しモノ好き」の方々は飽きるのが早いもんです。

食べたり飲んだりするものを販売するのはお客さんが前提の仕事。けどそれはお客さんの「上っ面の行動」を追いかけるという意味にはなりません。お客さんが本当は何を求めているのかを考えることです。

「最先端」を追うのはキリがありませんよ。
今現在輝いてみえても、すぐに陳腐になり色褪せてしまう。
流行とはそんなモノなんですよ。



人間には「ソウルフード」って奴が必ずあります。
この言葉自体は米国のアフリカ系の方々の言葉ですが、その意味合いにおいて世界共通でしょう。日本では郷土料理や「おふくろの味」がそれに該当しましょうかね。

幼少期や食べ盛りに「美味しい」と感じた食べ物はね、一生涯記憶として残り死ぬまで消えません。グルメ漫画などで「こんな美味いものは今まで食べた事がない」って決まり文句が使われますが、そんな筈はないんです(笑)

「若かりしあの頃に食べたあの味を超える食べ物に出会えない」が本当なんです。今までに食べた事のない味に出会いますと、感激したり、あるいは拒否反応を起こしたり、まぁ軽いカルチャーショックを感じます。

新しい味覚に「目が醒めるような思い」をする場合もありましょう。
けどね、だからといって人間はそれを今後も食べ続けようとは思わない。
思ったとしても、やがて遠のいて行くのですよ。

何故か。
それは出会いよりも記憶を優先させる「人間の仕組み」のせいです。

本質的にヒトは自己本位。
自分の中で組み立てた「決まり」によって世の中と接します。

外部から入ってきた情報をその人独自のフィルターに通し、「個性」「感性」によって再構築されて「自分の考え方」と「行動原理」が出来上がります。

それは他人からみれば「思い込み」でしかありません。
が、その本人にしてみれば「これが世界そのもの」なんですね。

このシステムで明らかな事は、「記憶」の重要性ですな。
ヒトの行動はメモリによって左右されるって事です。

このメモリは不思議なことに「最新版」よりも、「一番最初の経験」を引っ張り出す特性があります。「三つ子の魂百まで」という言葉がありますけども、「初志貫徹」は難しいくても、意志とは無関係の「体感」は、まさにこの言葉の通りなのでしょう。人間は「上書き」されるだけの単純な構造ではないようです。

新しい体験を受け入るのは簡単ではないが、人格形成の時期の体験や記憶は常に優先されているという事になります。

つまりね、早い話が大多数のお客さんの舌は「保守的」なのですよ。


商売の鉄則は「顧客の開拓」と「顧客のつなぎとめ」です。
次々と新しい事を求めるお客に合わせて新開発に追われるのが定めの様にも思いましょうが、そうとばかりは言えません。そのレールに乗れば原則的に「顧客のつなぎとめ」は不可能です。他に流れるのは必定。

お客の後ろ姿を追いかけ続けるよりも、「戻って来る」のを待つ。
人は新しいものに飛びつく習性があるが、すぐに飽きる。

それは食においても同じ事だと思うんですよ。
「未来」ではなく「過去の再現」を目指す。味的なものでね。

「いらっしゃいませ」と言うよりも、「おかえりなさい」です。
新しい味の追求も悪くはないが、猫騙しでは不毛。

ケバい厚化粧よりスッピン。人様を安心させる道を選びたい。
創意工夫はお客さんを満足させる方向に使いたい。

天才でもないかぎり、「自己満足」で商売はできません。
我は抑えて、常に顧客を笑顔で帰すべきでしょう。

まあ具体的にどうするかは店主の個性や考え方次第になりますがね。一つだけ確実なのはこのやり方で「大規模化」は無理だということ。

チェーン展開やマスコミ露出による「大儲け」は出来ないって意味です。すぐに矛盾の波にさらわれて沈没。クーポン屋に騙されて妙チクリンなおせち料理を売ったりするのが関の山。

大事なのは「顧客」であって、マスコミや「過ぎ去る嵐」ではないと思いますね、おいらは。この考えは数十年の間まったく変わりません。

客の味覚と蕎麦がき

☆素直に感謝だけを書くと照れくさいのでヒネ含み

先日、このBlog『てまえ、板前、男前』とホームページの『手前板前』の合計アクセス数が一千万ヒットを超えました。その七割以上はホームページのですが、あのHPは元々このブログで書いた記事です。

一千万と言っても大手サイトさんはあっという間ですし、個人サイトでも凄い所はたくさんありますので、実際のとこたいした事はありません。

しかしおいらは5~6年前までパソコンを見るだけで虫酸が走る様な男でした。ど素人もいいとこ(閲覧歴はけっこう長いがそもそも機械音痴)

マルちゃんの策略に乗せられてブログを開始したものの、1年以上続くなんて事は考えちゃいませんでした。今でもWebサイトのデザインだのタグなんぞと向きあうと頭がボンヤリとして鼻水が出てきますので見ないようにしてますから、すぐに全部忘れる始末。単純なHTMLさえイラつくのにJavaやPHPなどは見る気にさえなりません。ただのミミズの踊りですよありゃ(笑)

つまりね、どう考えても100万越えサイトになる可能性はゼロでした。
だが、時間はかかったものの1000万。

これをどう解釈するかだという気がします。
Web技術はおそらく中高生以下でしょうから論外。

見えないサイト閲覧者さん達をどう考えるでしょう。
結局ね、「お客様」と考えるしかおいらにはやりようがありませんでした。最初からアフィリもやっていたのが意外と鍵になっている訳です。


そのお客さんをどうやって得るか。
そこからですよ。現実の自分とオーバーラップしてくるのは。

ジリジリと諦めずに「続ける」しかないんです。
パンッとはじけるようなブレイクなどは無い。

進んでるのか後退してるのか分からなくなるもどかしさもあります。
面倒さに辟易し放り出そうと思った回数は数えきれないくらいです。

でも放り出さなかったから鯔さん始め多数の読者さんと巡り会えました。

いつの間にかバーチャル世界でも東京都**区で食べ物商売やっている自分の姿と瓜二つになっているんですよ。不思議といえば不思議だし、当然と言えば当然なのかもしれませんけどね。


長々と書いてますが言いたいことは一つです。
数字が先じゃなく、お客さんが先】だという事実です。

机の上や腹の中で先に数字を組んだって意味はない。
お客とさんと「どうつながるか」が先です。

数字はその後ろからついてくるだけにすぎません。

おいらは時々記事の中で「大企業病」という単語を使用しますが、その発病の大きな原因の一つが「先に数字」だと思います。症状が進行するとお客の顔も個性も消えて記号や数字にしか見えなくなるのでしょうね。

サイトを始めてから実に色々な事がありましたが、今回の大震災はやはり極めつけの出来事でした。魚ブログなので三陸の読者さんが多かったし、その中には津波で亡くなった人もいるはずです。もしかしたらここにコメントを入れてくれた人もいるかも知れません(確認のしようがありませんが)


もう書けなくなるかも知れないという気もしました。

現場の廃墟を見たときに感じたのは、この社会の脆弱さです。
我々はなんというアヤフヤな基盤の上で生きていることか。

その後の原発問題と政治の遅滞。

「なにもかも無意味なのではないか」

だけどね、無力感に包まれていようが時間は止まらない。
社会は動いているし、テメェの心臓もまだ脈を打っている。

それはつまり「お客さんが自分を訪ねてくる可能性がある」って事。

その可能性に背を向ける商売人であってはいけない。

人は皆商売をして糊口をしのいでますんで商売人に限らずです。

まぁ、偉そうな事を言っても先はまったく分かりません。
寂れてペンペン草が生えるような有様になるかも知れず、そうした覚悟はリアルの人生においても持ち続けています。明日など分かりゃしませんよ。分からないからこそ頑張ろうという気力が出るんじゃないでしょうか。



☆よく混ぜないと柔らかすぎ、混ぜ過ぎると硬くなる

話は突然変わりますが、料理Q&Aに蕎麦に関する質問が入り、その回答を見ますと、蕎麦に関してただならぬ想いを持った方が多いと想像させるに充分な雰囲気です。

実はおいらもその一人なんですが、このサイトには出来る限り蕎麦の話を書かない事にしております。引退後に「そば打ちのサイト」を作る予定だからです。内容がだぶってしまいますと、書く気力が出ないでしょうから。

蕎麦の魅力は野趣です。
野性味の深い香りってことですね。

野の草が好きな日本人に好まれてきた理由はそこにありましょう。残念なことに「肝心の香り」は粉から打つ手打ちでしか味わえませんけどね。

蕎麦の料理は麺にする他にも沢山ありますけども、野生の香りを堪能するならば練り物の『そばがき』がいいですね。

そばがきには粉っぽさが残るが手早く作れる『椀がき』と、少し手間はかかるが火を通してまろやかにし、粘りを出す『鍋がき』があります。

作り方ですが、「椀がき」はそば粉と同量の熱湯を用意。椀に粉を山形に入れて熱湯を注いで箸で掻き回すだけ。

対して「鍋がき」は、鍋を使いまず粉と同量の水でよくこねます。
次に熱湯をカップ1ほど加えながら加熱しつつ泡立て器で混ぜ込みます。少し固まってきたら火からおろしてさらに練り込みます。
生地っぽくなってきたら今度はすりこ木で練りながらもう一度加熱しつつさらに練り上げます。

「椀がき」も「鍋がき」もポイントは生地の固さです。
スポンジよりも柔らかめ、だが当然ながらメレンゲよりは硬め。

箸でつかめない様では柔すぎるし、弾力を感じるほどでは硬すぎる。
「丁度良い硬さ」にするのは結構むずかしい。


人様との間合いと同じで本当は「丁度良い」なんて加減はないのかも知れません。粉のアクが匂い立つのは野趣が強くて素朴過ぎるでしょうし、それは料理としての「手」が足りません。

だけど機械のように強く練りすぎれば今度はまるで工業製品。
フランスパンでは意味が無い。

飾り付けを進めれば「地」を失い野趣をなくす。
蕎麦はとても面白い素材、そして料理です。

料理人、そして商売人にね、何かを教えてくれる気がするんですよ。
なので板前商売と蕎麦はやめられません。

ついでながら、そばがきを頂く時は「かえし」より煮切り醤油に山葵が良い気がします。


2011年06月17日

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