八寸の傾向と板前道具の変遷
八寸というのは杉製の盆の事です。
そのサイズがおよそ八寸(24㎝)四方。
茶事から懐石へと料理を振舞う流れのなかで出来た形式で、海の物山の物を二種盛りにした器がこの八寸杉盆でした。
現在は和食板場の作業ポジション「八寸場」と名前だけが残り、寿司屋の「漬け場」と似たようなもので、形骸化している感がありまして、その八寸場も実際は「前菜やお通し」を作る場所になっています。ですからその種の物を総合して八寸と呼んでおります。
昔ながらの手作業の部分も残してはいますものの、

和食のなかでも一番加工の度合いが高く、献立の面からも常に変化させるために研究しなきゃいけないところがあり、料理長を悩ませる仕事でもあります。絶えず新しいものを取り込んで行く傾向があります。
日本料理の華に位置したゆえに、旧態依然とはしていられない宿命を背負っているのです。毎回趣向を変化させるのは、長年続けていると尚更にそうなって来るのですが、かなりしんどい事です。
ゆえに時には苦し紛れに奇を衒ってみたりもします。
八寸用の太巻き

具もシャリも本物の太巻きと同じでサイズだけ極小。

季節の食材を昔ながらの調理法で数点作り、その合間にポツンとこういうのをかませるとお客様は「あら」って感じで笑みが浮かぶ。喜んで頂けるなら多少奇抜な物でも出す時もある。あまりエスカレートするのも考えものですが、板前は本来の仕事を忘れる事はありませんので、そう逸脱はするもんじゃありません。

こうした傾向が続いて、和食の板場にも昔は無かった道具類が入って来る様になりました。

なにやら横文字のコック用語で分類してますが、

ここは洋食の厨房ではなく、和食の板場です。
こうした傾向、つまり加速度がついて過剰になるって意味において疑問を感じぬ訳ではありません。しかしそれを考えている暇がないのが実際のところです。ふとした瞬間「こんな事はキリがないんじゃないか」と思うこともあります。このままだと、「八寸」の名は消滅し、普通に「オードブル」と呼び出すのでないか。
しかしまぁその心配は杞憂に過ぎないでしょう。
新たな世代がいくら出てこようと、その人が板前である以上「温故知新」を忘れる事はない。そう思っています。
2009年07月08日
Comment
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こんにちは魚山人さん ここ最近家族で風邪です 虫歯と風邪は板前は御法度と分かってはいるものの 申し開きできない想いでいっぱいでしたが ようやく本来に戻りつつあります 八寸から前菜 口代わりと、仕事の流れもかわってきたとこもありますね 昔ながらの仕立てのなかで やはり新しいものも 取り入れていく。これは板前にとって日々勉強と感性を磨ける事で 魚山人さんがおっしゃる通りだと思います。 たまに助で頼まれていく板場には、記事にございます 道具を多々みかけます 使い方が分からない(笑)しかし便利ですね(^O^)自分所はミキサーくらいしかない(笑)最近は暇だから 胡麻豆富もペースト使わないで、当たり鉢… 一人いる若い子は苦痛の顔(笑)次ぎ行く板場で困らないように(笑)昔ながらの仕事は手間がかかる 基本が出来てくれば、 応用もきく 温故知新。自分たち世代 頑張ります! ジュン菜利休寄せ カマス小袖寿司 尼鯛興津干し 白瓜昆布〆黄身酢 小倉蓮根 丸十才巻饅頭 枝豆有馬煮蒸し鮑 もう一品…何かを試みるか はたまたえらい昔のどう料理の名前だったか忘れてしまいそうな仕事をするか… 豆腐でも食いながら 考えてみましょうかね(^O^)
Posted by たいら at 2009年07月08日 13:02
今、大事なものは
十個の天然砥石と鍛造した和包丁です。機械は放棄しました。アイデアだけで思想のない料理には驚きだけで舌で味わう楽しみを感じません。
Posted by フランス料理コック at 2009年07月08日 13:03
たいらさん。
かなり前にどこかに書いているのですが、正直なところ「新しいもの」にはもう関心はなく、現代料理とやらにすらも関心はありません。(商売をして、誰かしらに飯を食わせている以上、それだけで通せませんけどね)
興味があるのは「味はひとつ」のみです。
フランス料理コックさん。
素晴らしい御心掛けです。
感心致しました。
Posted by 魚山人 at 2009年07月08日 17:17
お疲れ様です お茶を濁した書き込みになってしまたようです 自分はこの瞬間まで奇抜で見た目だけの料理には興味はないですよ 修行足らずの日々勉強です 鴨の火入れ一つとっても教わったのよりも美味く、そのときの鴨を一番良い状態にしたい 割り仕事オンリーじゃなくどうしたら、素材が生きるか 道具を揃えないのも、昔の仕事が好きだからです 分からない昔の仕事も引退した板前に教わってもいます ただなにかを試みる新しい仕事は、すべてが現代料理だともおもわないですし、今しかない素材の中で先人たちに教わった良い仕事を追いやるものではないです たえず研究するこころみが、新しい、自分の料理法だとおもっています。近所にもダイニングやら創作やらありますが 否定はしません ただ作りたくないし 食べないでしょうけど。みなさん一生懸命やってる 自分が拵えた枝豆有馬なんてはっきいって取れたてを、きつめの塩いれて煽って そのまま鍋止めしたほうが 色がわるいが上手い 経営者さんに雇われ家族を守っていく 自分の気持ちを押さえ込み毎日立つ。それが嫌だから暖簾をだして 素材と心の豊かさで世にでたい まだまだ弱い男です 想ばかりが先走ってもいけないことは、分かっています… 現代人は色キチガイと昔の職人に聞かされたもんです 初心を忘れずやってまいります 有り難うございます
Posted by たいら at 2009年07月08日 21:40
お疲れ様です、たいらさん。
>現代人は色キチガイ
この言葉のなかにすべてまとまりますね。
しかしこれを否定してまともに商売できないのも事実。
現代人のほぼすべての舌と乖離するのは間違いないですから。
それでも突き詰めればどうなるか、
【一日1~2組だけの完全予約制】とかね、
とにかく太平洋に西瓜一個って感じの「舌が普通じゃない富裕な層」を顧客にするしかないわけです。
これから言えるのは「本当の味を大勢の人に食べてもらいたい」という考えは砂の城なんですよ。おいらもシンパシーはこうした料理人にありますが、それを商売として軌道に乗せるのがどれほど稀な事かも知っているのですよ。料亭の惨状もその一例と言えましょう。
お客様の舌は企業のものであって、料理人のものではないのが動かせない現実です。そうした事実を認識せぬ商売はすぐに傾き、あるいは「舌のマヒした人間は話にならん」っていう鼻持ちならないグルメ気取りの傲慢な人間になり、世から浮き上がってしまうでしょう。
これをもう一つの捉え方で考えますと、たとえば現在の商売を早期にたたんでしまい、一度引退してから「趣味・道楽」の延長、つまり商売を度外視した店を始めるとかね。かなりの覚悟を持っておかなきゃいかんでしょう。そのくらいしか方法はないんです。
突き詰めて行きますと、
「最後に残る客(舌)は自分(の舌)だけで他はいない」
そうなるのを覚悟しておかなきゃいかんのです。
「関心がない」という言葉は、そうした種類の「自分に向けた覚悟」そんな感じのものだとご理解下さい。
Posted by 魚山人 at 2009年07月08日 23:51