料理は独善的なもの 


料理は独善的なもの

【料理道】と【散り行く桜】に重奏の音色を聴く

「料理」の現在位置

桜の花が散っていくと同時に生暖かい風がそよぎ始め、気がつけば5月の大型連休が目の前。季節の移ろい、というより「一年」は早いものです。
桜吹雪に眼を細めながらふと想うのは、昨今の「料理=グルメ」の状況だったりします。

こうなってしまったものはもう仕方ありませんけども、料理はこういう姿になるべきではなかったと思うんですよ。「乗る」べきではなかった。いや、「乗せられた」というべきでしょうね。なにしろ慎みのある日本人ですんで、今のような「与えられすぎ・食べ過ぎ」って状況を自らすき好んで求めた訳ではない。あきらかな「供給過剰」です。

なにせ食に関する全ての悩みは、たった一言「食べ過ぎ」で片付いてしまうのですよ。

料理とは本来地味なものです。
生活になくてはならないものですから、飾り付ける必要はない。
TVが公共の電波を使って「食べ歩き」だの「料理拝見」。こんな風潮はよく考えてみれば異常ですよ。メディアにはやらなきゃいかん事が他にあるはずです。他人の台所や食卓を覗き見してる場合ではない。

ブログを始めて間もない頃、ヤフーに登録してもらってアクセスが増えた時期か、あるいはどこぞのポータルにインタビューされ、「手前、板前、男前なんていうラップみたいなタイトルをどうして思いついたんですか?」なんてQ&Aが掲載された時期か、定かじゃありませんけども、まあ3年以上前の事です。あるメールを頂きました。

「ブログランキングでお隣だったので遊びに来ました。・・・中略・・・板前さんなんて料理の専門家が料理ブログ書いてて羨ましいです。私なんかただの主婦だから・・・」

おいらはこう返事しました。
「料理の専門家は主婦で、板前は料理で稼ぐプロです」
どうも忘れ去られているようですが、主婦の本業は料理人なんですよ。それは料理ランキングを賑わせているブロガーが殆ど主婦であるのを見れば分かろうというものでしょう。料理のベテランは主婦だし、それがあるべき姿です。

料理は今のように表舞台にいるべきではなく、裏側で人間を支えているべきものだと思います。妙に煽られてスポットを当てられている今は、ある種病的な気がします。




問題の根は何処にあるのか?
それは今現在日本を悩ましている「デフレ」にあると思います。
何故デフレになるのかと言えばそれは日本人の性格に原因があります。
慎重で計画的、つまり貯金好きってことですね。
どうしても貯蓄の方が消費を上回るんですよこの国は。
安心して消費出来る完璧な社会保障もないのが貯蓄に拍車をかける。

その貯金は使われなきゃ経済が回らないので日本政府と外国人が使う。
すると貿易黒字になり政府の財政赤字が増え、デフレになる。

ついでに言えば日本人が懸命に貯蓄した1500兆円の金融資産、これは銀行や郵貯にあるわけだが、我々に断りもなくその資産で国債を買っている。しかし国債に担保はなく、債務不履行になっても国は国有財産を差し出す必要はなく、ハイパーインフレになるので円を刷りまくる事もしない。国民が貯めた資産を紙くずにされてしまう可能性は常に存在します。

まあ要するに経済生産が消費を上回ってしまう構造なのですよ。
「作り過ぎ」なのです。
これが我々の生活に広く重くのしかかっているわけです。
これは構造的なものですから解決の糸口は見えません。

日本列島は「物を作る」目的に特化しているのです。
その生産品全部を海外に売るには無理があるので国内消費にも力を入れる。どうしても日本人の家庭内をガラクタの山にし、不必要な程に胃袋を膨らませる必要があるのですが、それにも限界がある。一個の餅は美味いが、10個だと泥んこなのです。しかし経済はそれでも過剰な供給をやめないでしょう。テレビなどで煽りたて、「飽食の幸せ」を書き続ける事でしょう。食べる側の都合など考えずひたすら生産するばかりです。いくら過剰であろうとね。

身の丈を超えた消費に追われて、ふと振り返れば不毛の地と空虚な人々。
不要なソフトでがんじがらめになり正常に機能しないパソコンの本末転倒ぶり、使いもしないアプリがいかに無駄か分からず、全然スマートではないスマート・フォンとやらを展開する携帯電話。それらの『空虚さ』と同じく、我々は料理も消費しなくてはいけない定めのようです。

旨い料理とは

まだ板前見習いの頃、よく聞いた話。

河岸に行けば、
「明治生まれの築地の古老は魚の目利きが半端じゃねぇ」
「鮎の匂いで全国の川を言い当てるのは序の口」
「名人は真鯛を見ただけでウロコの数をピタリと当てる」

鮨屋じゃ、
「名人はシャリの大きさが同じ。飯粒の数まで同じに握る」

それを聞いたおいら、最初は「それは凄いな」と思ったが、
よく考えたら「それと料理にどんな関係があるんだよ」です。
それは機械の「ロボット芸」だと思うんですよ。

亡くなってしまったが、おいらが本当に名人だと思った鮨職人はね、
「いつもシャリの大きさがバラバラ」でした。
お客がカウンターに座ったらまず最初に大きな握りを出す。
そしてどんどん小さくなっていくんですよ。
しかも家族4人が座ってたとすれば4人全部バラバラの大きさ。

つまりヘタクソだからシャリを均一に握れないのとは正反対。
「その客が」一番望んでいる大きさの鮨を握っているんです。
【食べる人=お客さん=人間】を知悉していなければできる芸当じゃありません。
胃袋の具合までも考慮して食客を満足させようとする執念。

「これが対面で料理を作れるすし屋の良さなんだよ」
その人はそう言いました。

料理とは独善的なものです。
どんな人間が食べても美味しいなどという料理は存在しません。
自分は絶品だと思ってもそれを嫌う人間もいるのです。

おいらにゃ跡継ぎがおりませんので一代限りです。
誰かに継がそうという気持もありません。
家族はいるが、もしおいらが斃れ死んだとして、
女房は生涯の職を持っているので後の心配は無用。
もし仮に息子がいたとしても店は継がせません。
万が一料理の才能があれば自分勝手に店を出すなりするでしょう。
そんな事は知ったことじゃありません。親は学校出せば充分。
料理は親から子に伝わるものではありません。

料理とはね、
自分の個性を出して誰かと接する【接点】なんです。
調理技術やレシピは付属品でしかありません。
あくまでも「自分が人様」と接することが料理の主眼なのです。

自分が作った「独善的な品」
それに共感する人がいるかどうか。
それが料理人なのですよ。

家庭においては主婦がその独裁者です。
だからこそ「おふくろの味」は忘れがたく記憶に残るのです。

器にどんな料理を盛るか?

お客が満足できる握り寿司のサイズは?

結局料理は食べる人の事を考えないと作れはしないのです。
その当り前のことが、まるで散り行く桜の花のように儚いのが「現代の姿」

その姿を落ち着いて見つめられる時代は来るんでしょうか


2010年04月15日

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