無口な板前の接客術 


無口な板前の接客術

ヒトと上手く付き合う方法』とか『人間関係を円滑にする技術』なんてマニュアル・ハウツーなんぞ、何の意味もないって話を少し書きましょう。

饒舌と寡黙の狭間

おいらは元来寡黙な人間です。いつからそうなったのかよく憶えていませんが、気がついた時には無口な男になっていました。

余分な事は喋れないし、喋りたくない。そんな奴だからカウンター仕事の比重が大きい鮨職人から和食へと鞍替えしたのかも知れません。

「お喋り」がどのくらい苦手かと言いますと、例えばこのブログ。
長めの記事をUPした日には出来るだけ誰とも顔を合わせない様にしています。まったく何も話したくない気分になっていますし、実際に喋れないからいらぬ心配をかける可能性もある。



実生活で喋るエネルギーをブログで使ってしまった。そういう事になります。ですので暮らしの中で少し喋りが過ぎた日はブログを書く気力がありません。自分にとって「話をする」のは「普通の事」・「日常茶飯事」ではないと言わざるを得ません。

しかし生憎ながら絵描きや陶芸家になる事は出来ませんでした。選んだ稼業は板前。チームワークが必要な仕事です。一人だけムスッてしてりゃ職場の雰囲気は悪くなるもんです。べつに不貞腐れているわけじゃなくても、ダンマリが過ぎれば周囲から浮くってくらいの想像力は持っています。

要するに「ここは口を開くべきところ」だと判断した場面では喋っている訳です。そういうのがどうしても嫌で、出来ないのならば、一人っきりで山にでもこもるしかない。それが分別だと思っています。

おそらく就職して以降誰もおいらがそれほどまでに無口であり、喋るのを苦痛に感じていると気付いた人間はいないと思います。「普通」かあるいは「けっこう喋るタイプ」くらいにしか感じていないでしょう。接客商売ですからね。いまじゃ錬度も増しているはずです。

10代の頃は少々喧嘩っ早い性質で短気でした。でも運良く「人」に恵まれていましたので、その指導もあり比較的早くから「人間関係」の重要さに気がつく事ができました。

付き合いは、【吐き遭い】【突き遭い】【尽き遭い】ではない
己の我を忍、人の美を引き出すこと

人との関係を円滑にするのは知恵ではありませんし、まして本で得た知識などでもありません。大切なのは「記憶力」なんですよ。


人間同士ってのは、そりゃもう難しいもんです。
集まれば必ずトラブルが起きます。
職場、学校、家庭、社会全てに当て嵌まります。
犬や猫でもあるまいに、
飲み屋でパチンコ屋で、隣り合っただけでいがみ合う。

頭に血が昇り、
「気に入らない」だの
「あいつだけは許せない」だの
「あの人だけは絶対無理」だの
「ストレスで病気になりそう」だの

人間ってのはそういうもんなんですよ。

「あそこの集団は卑怯者の集まり」
「あの国の人間は金に汚い、ずるい」
「あそこはブサイクなやつばかり」
段々と低俗・下劣になって行きますがこれとて同じ事。

野卑に堕ちて当然です。
自分を棚に上げて他を非難するのは醜い。

なんでそうなるのか。

簡単な話です。
憶えてないんですよ、「記憶力」の問題です。


どんな人間でも成長する過程で傷を負います。
痛い思いをしているはずなんですよ。

親は子供が悪さをしたら頭を叩く。
痛ければ泣く。そいつを憶えていない。

意地悪な友達に「ウスノロ」と誹られたかも知れない。
表面はどうであれ心は傷つく。それも憶えていない。

だって憶えていれば同じ事を人様にしないでしょう?

どれだけ痛いか自分がよく知っているんだもの。


先に書きました様においらは生来短気で無口。
人の好き嫌いも激しい方でしょう。
しかし「どんな人とでも」、それこそ「嫌いな人」とでも上手く付き合う事ができます。(ただし必然の範囲内。でしゃばりはしません)

その理由は「性格の全部が嫌な人」ってのは存在しないからですよ。相容れぬ面は多くあります。耳を塞ぎたいセリフを聞かされたりもします。おいらの気短な部分は「このゲス野郎が」と反応しますが、押し殺します。

そんな方でも必ずどこかしら優しい部分や人間的な部分があるからです。
探せば絶対にあるんです。

どうやって探すのか。
自分が痛い思いをした記憶を掘り返せばいいんです。

蘇った記憶がヒトを優しくするんですよ。

あなた自身の記憶は「本」に書かれていません。


2009年07月10日

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