飲食店のホール係と接客 


飲食店のホール係と接客

(1) パントリーに客はいない

都内で生活をしていますと、歩いて行ける範囲内に様々なお店が沢山あります。もちろん食べ物を出す飲食店も多数ございます。

町内会の会長ではありませんので、そのすべての店舗を把握しているわけではなく、知らない店もあれば、いつの間にか消えてしまったり、新しくなったりと、まあ実に目紛るしい。

日々移ろう街並みの風景に、「落ち着きがないことだなぁ」と、文句の言葉も出てきたりしますが、今の日本、都心を少し離れましたら「閉めた店はシャッターを下ろしたまま朽ちていく」というのが普通の光景ですから、すぐに新しい店が出来る「唯一活性化している東京」の人間が、文句など言える義理ではないとも思ったりします。

そんな感じで、先日も新しい食べ物屋さんがオープンしておりましたので、さっそく食べに行ってきました。



顔を上げない店員

店の造りは良い感じでした。
最近はまぁアレですな。「新規開店さえしてしまえば客は来るだろう」という昭和時代の感覚を持っている人はもう殆どいませんし、それなりに研究しないと店も出せない時代ですから、これは当然なのかもしれません。

出す料理にも拘りがあるらしく、どこの産地のどういう素材を使っているかなどをお客に分るようにアンバイよくアピールしており、これも好感。 「不味いモンは出さないよ」という主の主張が、自然にすっとお客に伝わる工夫。いい感じで期待感が高まります。

ところが、
料理が出てくる前に "この店はダメ"と判断を下しました。 残念ですが、そういう判定をせざるを得なかったのです。

昔このブログに「ホール仕事の大切さ」とかいう記事を書いた記憶がありますし、その記事だけではなく「店は接客を担当する者が一番大事である」みたいなことを度々書いております。

この店のホールさん達、元気も良いし人柄もよさげで感じはいいんですが、「まったくお客を見ていない」のですよ。

おいらが席についたのは確認した。
しかし、それっきりなんです(笑)
放置状態。
いつまでたっても注文を聞きに来ない。

たかが店の席数の半分程度が埋まったくらいで、煽られて気持ちがパニック気味になっているんです。

「まだ慣れていないから」
そういう言い訳なんぞ通用しないのですよ。


通常、飲食店は、レジやそれに伴う作業をする箇所を客席とエントランスが見通せるような場所に設けております。これは鉄則でしてね、それ以外の造作は特別な例を除いて有り得ないでしょう。ホール全体を一望できる場所に従業員がいなきゃいけないからです。

その理由は、当たり前ですが「お客を見るため」です。

そういうこともあり、初めての店に行くときは「その場所が見える席」に陣取るようにしています。反対にこちらからレジ方面を見ることで、その店がどういう店なのかすぐに分るからです。だから今回も、「煽られているんだろうけど、それ以前の問題でこれはダメだ」と一発で。

その店のホールさんはね、見晴らしのよいレジ付近に張り付いているのはいいが「下を向いていて客席を見ていない」のです。店のメニューだかマニュアルだか知りませんが、何かを懸命に見ておるふう。俯いたままで顔を上げようとしない。

そういうのはお役所の事務作業をしている人の得意技であって、飲食店の従業員がやる事ではありません。

飲食店のホール係の仕事の90%以上は、「お客さんから目を離さないこと」なんですよ。

いくら人手不足だからといって、自分たちのメニューもろくに覚えていない従業員に接客させるような責任者であれば、「自慢の料理」とやらも期待できませんな。


なぜ下を向いているとダメなのか。
そうすると肝心のお客が見えないからです。

オーダーを取りに来ないのも、
「混雑して忙しいから仕方ないでしょ」

そうではないんです。
お客だって常識のある普通の人であれば、忙しくてバタバタしているのは理解できますし、多少待たされても怒りはしません。

気分が悪くなるのはね、「放置されている」からです。
「無視してんのか?ふざけんな!」ですな。

人はどういう場合に「無視されている」と感じるか。
【アイコンタクトがないとき】です。

人間は敏感な生き物。
自分が見られているかどうかすぐに分るもんです。

「ああ、あの店員さんは俺の存在を気にしているんだ」
「俺が待っているのを知っていて、気にしている」
「それなら多少待たされても許せるなぁ」

こういう感情の流れになるのは、「目の力」あればこそ。
店の人が顔を上げて大きな目玉で客を見ていればこそです。


非常に単純なことを延々と書いているんですが、このような「常識以前」すら理解していないとおぼしき方が、接客の仕事をしているケースが多いのは事実です。

人には個性があり性格もありますので彼是一概に言えませんのですが、ただ「自分がお客として行った店で、何かで気分が悪くなりアタマに血がのぼった状態で、料理を美味しいと感じれるかどうか」をよくよく考えてみてほしいですね。

ホール係の仕事は、伝票台で事務作業をすることではありません。

(2)結果も大事だがプロセスはそれより大事

「気を回すことができる」
これが日本人の良いところです。

そしてこれは「接客」という仕事にドンピシャリ。だからこそ「おもてなし」などと自画自賛する人々も出るのでしょう。

個人的には、「それは自分たちが言うことじゃないだろ」と思いますし、「それ言っちゃ終わりだろ」とも思えるんですけどね。

他者が評価して決めることを、本人が主張するというのは「本当に日本人の美意識なのか?」と疑いたくなります。  そういうのはある意味「アメリカ人」「中国人」の特徴だという気がします。

「自信」と「自慢」は、まったく別のものではないでしょうか。
本当に自信があり、それを裏付ける実力もある人間は、殆どの場合「多くを語らず、ただ黙々と行動する」ように思えます。

ちょっと話がズレましたので元に戻します。
顔を上げられないというのは、「その人の性格」が大きいでしょう。性格は簡単に変えられませんので、極端な場合「接客業はムリ」です。

しかしそれは「極端な場合」であって、ほとんどは「訓練によって改善可能」なのです。気持ちを切り替えられれば、性格もある程度は変わるし、また性格が変わらずとも、「変わったように見せること」が可能になるのです。


お店というのは商売です。
商売とは端的に言うと「お金を得る手段」になります。
つまり、商売の結果は売上金ということですね。

世の中、「結果を出せる人間になれ」が合言葉。
まぁこれは当たり前でしょう。
そうでなきゃ自分の力で生きているとは言えませんし。

しかしね、
「結果ばかりを求める」
「結果がすべて」
こういうのはどうなんでしょうか?

そうした風潮が蔓延しているからこそ、接客のイロハを知らぬどころか、「客を見ることもできない劣化ぶり」が増えている気がするんです。



コーヒーの良し悪しの大部分は、豆によって決まります。

新鮮な良い豆があれば「美味しい珈琲」を飲めるでしょう。
そして美味しい珈琲というのは結果でしかありません。

業務用のマシンと豆があれば、うまいコーヒーはいくらでも可能。
ですが、それでは中間が見えず結果しか分らない。

普通はそれでも構わないわけです。
結果としての美味いコーヒーが飲めればそれでよい。
満足できれば見合った金を出しても惜しくはない。

自分でコーヒーを淹れてみますと「中間過程」が見えます。
これをご覧ください。

自分でいろいろ工夫をする為の小道具。
ま、珈琲専門家の人から見ればお笑いでしょうけども(笑)

豆なので渋皮もあるし、焙煎してあるので挽くと余計な微粉も出ます。殻の屑を除去し、次は微細な粉末も排除する。そういうのはアクの元であって、旨みとは無縁ですからね。

専門的な道具を使わず、「身近にある物」でそれをやるわけです。
僅か一杯のコーヒーを飲むために、随分面倒なことです。

機械でガーっとやった挽き粉に湯を掛ければ出来るものなのに、いちいち手間と時間をかける。しかも粉を「二段漉し」しても、お湯が熱いと味の違いなんて殆ど感じないときてます(~_~; 

違いがハッキリ判るのは「冷めてしまった飲み残し」を飲んだ時くらいですね。冷たくなった珈琲というのは、少しでもアクや雑味があれば飲めたモンじゃありませんけども、逆に手間暇をかけて淹れたものは【冷めても美味しい】のです。

では、冷めても美味しい珈琲を飲みたいが為に毎回面倒くさい方法で淹れているのか言うと、実はそうでもありません。

「その面倒が楽しみで」やっている面が大きいのです。


何かを変えるには、何かを自分で発見すること。
そのきっかけは、とにかくまず何かを自分の手でやってみることじゃないでしょうか。

そうすることで、「大事なのは細部を見落とさないこと」だと気づくでしょう。ひとつ一つの細かい作業がつながっていく事で、モノゴトは完成して行くものであると理解でき、「見落としてはいけないコト」があるんだと分るのです。

一つを見落とすと、次も見えなくなる。
すると全体が見えなくなり、意味も分からなくなり、面倒になる。

分らない、面倒くさいという理由で「端折りグセ」を加速させると、結局は「結果だけでいい」ということになりましょう。


【何も見落とさない癖を身につける】
言いたいのはそういうことです。

お金を払い、サービスを受けるお客の立場なら「結果だけでもよい」のですが、お金を貰いサービスを提供する立場の者が「お客のような感覚」でよいわけがありません。

店に立ったら、常に店内全体を見回し、特にお客からは絶対に目を離さない。
お客の心の中まで手に取るように感じるレベルで目を離さない。

伝票やキッチンなどは「第三の目」で見ていればよい。
二つの目玉で見るべきものはそこではありません。


「気を回せる」というのは「おもいやり」の産物。

「おもいやり」「心遣い」とは想像力の産物。

想像力は、置換能力と経験の賜物です。

そして、経験は「何もしなければ」一生身につかないのです。


2015年05月04日

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