飲食業の曲がり角 


岐路に立つ飲食店

震災後の都内飲食業界は風前の灯火という感じです。
社用族をメインに予約主体で来た店、フリーのお客を待つ店、どちらも等しく客足が激減。

撤退を考える経営者は引きも切らず。実際に業界から去った者がこの夏どれだけいる事か。

このような状況はおそらく初めての事じゃないでしょうかね。過去に何度かあった「不況」とは本質的に何かが違うようです。

【従来の「構造」が行き止まりに来た】ってことでしょうな。
社会そのものが「曲がり角を曲がった」あるいは「峠を越えた」ということで、これまでのやり方を続けるのはもう不可能に近づいていた。そこに3・11が舞い降りた。



街に降る見えない雨

震災はとんでもない巨大な災害でしたけども、日本人も世界の方々もなんとか理解可能な範疇。いかに悲惨でも人々が状況を把握して立ち向かえる出来事です。この天災だけなら日本は速やかに、むしろ以前よりも力強く再生に向かった可能性が高かった。そう思います。

しかし「原発」は酷すぎる。トドメを刺されたと思ってよい。
節電に放射能。これは人々の理解を越えた怪物です。
正体さえ見えない怪物の影響に消費者は完全萎縮。
解決への道筋がまったく誰にも見えないからですな。

「自粛ムード」などとは明らかに様相が異なる別のものが街を支配。

嘘だと思うなら東京の街を歩いてみればいい。
今年2月までとはまったく違う風景があります。
昼間の群衆に熱気が失せ疎に空間。人間そのものも節電か。
人口が減ったわけではないのに人の密度が薄い。
夜の9時を過ぎればまるでゴーストタウン。

『ゴジラ』
あの映画の第一作のテーマーを憶えている方もいるでしょう。
「核の世界」への警告ですな、作者の意図は。
核実験の放射線を浴びた生物がゴジラに変異。
東京湾に上陸して破壊の限りをつくし東京タワーもぶち壊してしまう。
首都の群衆はゴジラに蹴散らされ逃げまどう。

口から放射能らしき光線を吐くゴジラにセリフがあればこうなります。
「核をもてあそぶお前らはこうしてやる。これでもくらえ!」

半世紀以上前にこの映画を作った人は予知能力者ですか、って話。
まったく今の状況と同じすぎて脳みそが溶けそうです。

このゴジラ作者からのメッセージを完全に無視してゴジラっていう醜悪な怪物を可愛らしいキャラに直し「子供の娯楽」にしてしまった日本人に脱帽します。

(そういえば原発にもプルト君とかナントカ(?)
妙チクリンなゆるキャラがいて、キチガイみたいなセリフを言っていたとかいないとか。曰く「プルトニウムは飲んでも大丈夫なんだよ」 アホか 笑)

その天才ぶりに拍手を送りたい。やっぱり我々ってのは世界一優れた国民でしょうかね。子々孫々に自慢ができますな。 もっとも子孫達は高レベル核廃棄物の処理に頭を悩ませてるはずで、先祖を尊敬する気持ちはゼロでしょうがね。千兆円の借金プラス、放射能ゴミの山。どんな未来なんだか、気の毒に。

放射能から逃れようと人々は必死です。
「得体が知れない」「誰も信用できず、誰も助けにならない」

そうした状況で一番影響を受けるのは「食べるもの」「飲むもの」とか、他も含めた「嗜好全般を扱うサービス業」でしょうな。嗜好品ではない「水」や「主食」さえも影響甚大。

奥歯にモノが挟まった様な言い草しか出来ない政府・役人・マスコミ、そして世が世なら関係者含む全構成員が切腹・打首と処刑されてもおかしくない東京電力。

この連中がハッキリとした事は言わねぇくせに、「食べ物の危険」だけはウルサイくらいにたれ流す。正直に隠さず具体的な危険度を言えばいいのですよ。「本当は食品だけじゃなく、すべてが汚染されてます。余裕がある方は外国に移住して下さい。手遅れですけどね」

だが重い現実とテメェの責任に恐れをなして本当の事を言わず、不良がカツアゲする相手でも探すように気の弱そうな相手を探して矛先を変える。爪に火を灯してカツカツに頑張っている真面目な日本人(農家や零細企業)を狙い撃ち。風評被害を起こし弱者を苦しめる構図には吐き気がしますな。

大衆同士にレベルの低いヒステリーを起こさせ小さな争いを誘発する。
その煙幕に隠れて事故の責任者達は知らぬ顔してほっかむり。
計り知れない損害賠償もけっきょく全部国民に負担させるハラです。
何が代表選挙だよバカヤロウ。くだらねえ事にばかり力入れやがって。

飲食業界のコーナリング

さて、ゴジラはいつか首都中心部も破壊するでしょうから、放射能関係はちょいと脇に置いておきまして商売の話です。

料飲の商売がなぜ傾き、どうすれば商売を立て直せるのか。

そんな事はナントカカントカ言う横文字の肩書きを持った偉いセンセイ方が細かい数字やらムズカシイ用語などを散りばめてトクトクと説明した文がそこらじゅうにありますのでソチラをお読み頂くとしまして、東大しか出ておらず学歴のナイ(←)おいらとしてはムズカシイ事はアレなんで、「誰が読んでも分かる言葉」で書いてみます。

それは「ギョサンジンなる者の店がなぜ潰れないか」
なんでべらんめぇなヤクザモン(嘘ですよ。最近の話題を皮肉ったブラックです)である職人野郎の店が長く続いているかと関係があります(ただしボロ儲けはしてませんので勘違いはしないよう願います)


最近のことですが、どこぞの大きな店の店責をしてる後輩の板前が顔を出して色々と愚図々々言っておりました。会社から店舗を預かる苦労話という趣。

板前の殆どは勤め先の店を何度か変えます。
これはおいらも同じでした。

少し説明が難しいのですが、おいらが属した店は2つだけ。だが実際に働いた店は軽く50を超えます。だが最初から最後まで親方は一人のオヤジだけです。

昔の師弟制度はほぼ消えましたけども、板前の世界は今でも親方次第。まぁ、どの親方の下にいたかでだいたい方向が決まります。しかし良い親方についいても弟子全部がヒトカドになれるわけではありません。頭角を現すのは少数で、多くは分散して行き、音信が絶える者も少なくはありません。

寂しいものですが、仕方ないことです。
日本の人口増加が頭を打ち、減少に転じたように、何事であれ広がり続けるモンはありません。【凝縮したままの拡散などあり得ない。いつかは希薄になるのです】

訪ねて来た板前は「中間」あたりの立場でした。腰が定まらず心配していたのですが、起死回生というか、ある会社に腕を見込まれて大きな店を任せられました。

だが張り切ったのも束の間、とんでもない貧乏くじを引いたようです。
不幸にも、この時代に「バブル感覚」が抜けない会社だったのですよ。

彼の店の席数は150~200名。
面積は幾平米あるのか、おそらく畳の座敷だけでも20~30坪。

現在その店舗をスタッフ総数「10名前後」で動かしているそうです。
調理人員を含めての「10名程度」です。
その状況で「会席」さえ出しているらしい(笑)

このキャパを平日営業時100%稼働にするのは殆ど無理で、煩雑時間帯瞬間的に満席になる程度でしょう。だが週末とかは数回転する訳で、客単価を大衆店の平均値として10時間営業すると売り上げはだいたい100~180万円になる事になりますな。

諸事情が重なれば300万まで行くはずです。仮に都心の一等地だとしますとアイドルタイムがなく開店から閉店まで100%を超えますのでこの程度ではありませんけども、その前提はそもそもあり得ない話で、都心の繁華街にそんなキャパなんぞ馬鹿げています。デパートじゃあるまいし。

満席時(ピーク時)の店のホールには、ウェイティング、キャッシャー、パントリー、配膳などが必要で、座敷を含む100名~をさばこうと思えば人員が最低でも10名は必要です。洗い場にも2名必要。調理場にも最低8名。ようは20名のスッタフが要るって事で、これはギリギリで最低の数字です。

それを半分の総員10名前後でやっていると言う。
しかもホールは仕事慣れしていないバイトが主体。

ファストではなく料理屋であり、ホールの仕事をなめてはいけない。特殊な魚と同じく、いやそれ以上の360度視界が求められる難しい仕事ですよ。

新人の多くはちょっとでも追われたら基本の「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」さえも言えなくなるし、視野がアニメの二次元世界なみに平面になり何も見えない。

「接客」ができる様になる者は6人に1人いりゃいい方でしょう。そのうえハードさに辟易して仕事をおぼえた頃にはやめちまう。多くは使いもんになりません。

料理店の構造から考えて、この人数では150万以上売れません(特殊店を除く)。いやさ100万でも回るかどうか。満足な対応をしようと思えば150万でも20名以上が必要です。したがって現状では「メチャクチャ」になっているでしょうね。お客は「もう二度と来るもんか」です。

売り上げが落ちた、なので人を減らす、するとまた売上減少。
その悪循環に面白いくらいにハマっているのです。

店舗の社員達はサービス残業をして飯さえロクに食う時間もなく、一服さえ無く、倒れそうになりつつ働きながらも、お客からはクレーム、会社からは給料を減らされマトモなボーナスもなし、そしてリストラの順番を待つしかない。なんともはや、19世紀ですか今は。


そもそも何でこんな店を作ったのか。
簡単に言えば「ファミレスの真似」です。

こういう店は構造自体に問題があるので打つ手がありません。店舗を構想・設計する段階ですでに失敗してると言えます。業態を間違えていて、これでやるのなら「調理場に料理人が1人たりとも必要ないシステム」を先に作んなきゃいけません。

調理方はバイトだけで、工場から配送される「弁当」、チンすれば料理になるファミレス的商品を売るのならともかく、「プロの料理人が作って出す品」を売る店としては問題外というべきでしょう。

「ホテルのバイキングとか宴会場などでは立派な料理が出て大量の客をこなしてるじゃないか」
その程度の素人発想しか持てない人々がこんな店を作ってしまうんですな。「広い店ほど儲かる」は時代錯誤もいいとこ。

ああいう「置き料理」は段取りが根本的に違うのです。スケジュールを組んで、専念する「時間」を捻出するから作れるのですよ。

フリーで来店するお客にそのつど作って出す料理とは全然違う。一日中店内オーダーに追われながら数百名分の宴会料理を作ってみると分かります。出来るもんならね。

調理場の経験が無い人間はとかく「頼めばすぐに出来る」と考えがち。

「ファミレス」「回転寿司」「ファストフード」に慣れきって「待つ」という事が出来なくなった我儘な客でもあるまいし(あるいは同類か)、料理店を経営する会社の人間がそれでは話にならない。

お客さんが来る時間と来ない時間。
それがあるから仕込みや段取り、そして「修行」ができる。
開店から閉店までバタバタ追い回される毎日でもって何の料理か。

しかもその店は寿司も出すわ、会席の予約まで受けるという。
何にでも手を出すがそれをスムーズに客に出すシステムはゼロ。

そうなると店の責任者とスタッフが潰れるのは時間の問題。
良い腕を持つ人間からトンズラして行き、仕事の出来ない者だけ残る。

そして最後には「ファミレス飯」や「コンビニ弁当」以下のモンが出る。
どこの世界に何千円も出してそんなモンを食べに来る客がいるのか。

お膳を逆さまにしてお客に出すホールのねぇちゃん。
いくら呼んでも店員が誰も席に来ない。
冷めた料理に乾いた刺身。
なのに「サービス料金」(笑)

会社は客が離れる本質的な意味を悟らず値段を落としたりする。

値を下げれば仕入先に無理を言うようになり、業者は最低の食材を持ってくるようになる。そしてさらに料理は酷いものになり果てる。

大きな店舗の例を取り上げていますがね、理屈は小規模の店でも同じ事なのですよ。店を立ち上げる時に「席数」と「立地」を徹底的に熟慮しなきゃ店は続きません。もちろん自分がやる業態とマッチするかどうかをです。

そして商売上の目標は「儲ける店」より「潰れない店」です。
アクセルだけの車を運転すればいつか必ず自爆します。

『行列の出来る店』などを目指すと100%失敗します。
今は「昭和時代」ではありません。

現代人は心の底で行列に「反感」を持っているか滑稽に思っています。
時代は日本人を「待てない人々」に変えたのです。

もともと行列するお客さんってのは、
風向きが変われば全部ヨソに向かうもんですしね。


張り切って店を立ち上げる。
苦労はしたが、運にも恵まれ営業が軌道に乗る。
順調に客足が伸び資本に余裕が出来る。

するとその資本を「もっと大勢の客を得る方向」に使う。
よくある話ですな。

けどね、おいらは思います。
『顧客を掴むまでは地味で行き、顧客をつかんでも派手にならない』

誰のおかげで経営が楽になり利益が出たのかって事。
投下する資本があれば「顧客がもっと喜ぶ」方面に使えばいい。

アテにならぬフリーのお客に期待しても無駄な時代なんですよ。

顧客の満足度を高める。
それがさらなる顧客を増やす一番の方法なんです。

店をでっかく立派にし、店舗も増やす。その結果自分を育ててくれた大事な客は消えて店は見たこともない人で埋まる。

満席であるはずの店内が「からっぽ」であることに気がつかぬ程感覚は鈍り、客足が落ちて行く理由さえ分からなくなるんですよ。

「世の中不景気だからなあ、少し人員カットでもするか」
トップがこうなると店も終わりの始まりです。


震災以降の雰囲気は尋常ではありません。
けども「自分がカバー出来る席数」でやってきた店は大丈夫なはずです。
派手に走らず「自分の客」を持ってるわけですから。影響はない。


いかなる店でも始まりは楽ではありません。
小規模なれば宣伝に金も使えない。
お客が来ない日だってあるし、利益も出ない。

しかし精魂込めれてればポツリポツリとお客が訪れる。
何かが気に入ればまた来店してくれるでしょう。

あなたの料理を気に入ったのか?
あなたの人柄が気に入ったからなのか?

実はどちらでもありません。

人には潜在的な「仲間」が存在します。
血液型相性は勘弁ですが、「波長が合う者」はいるのです。
突き詰めればそうなってしまうのですよ。

顧客になってくれるのはあなたと波長が合ったお客です。
そしていつの間にか店は「潜在的な仲間」で埋まるのですよ。
類は友を呼ぶのです。

「近所にあって便利だから」
「料理が美味しいから」
などなど、その他多くの理由で来る方もいるでしょう。

だが消えずに残るのは「仲間」です。

「仲間たちのたまり場みたいにならないか」
「同好の士ばかり集まってたら商売にならないのでは」
「そんな一見さんお断りみたいな雰囲気の店は嫌だ」

その通りで、おいらだってそんな店には行きたくありません。

そういう感じになって店を潰す者が後を絶たないのも事実。

そうならない理由は店主の姿勢にあります。
顧客はあくまでもお客様であり仲間でも友達でもない。

たとえ親友でも店では友達ではないのです。

20年来の客も、今日初めて来た客も同じに扱う。
あえて例えるなら小学校の教諭や校長のスタンスですね。

その意味は「常識を失わない」ということ。
親身にはなっても節度を保った常識ある距離。

「えこひいき」はなし。
だが「仏」ではなく人間。
なので噛み合わぬ人に無理にあわせる気はない。
それが自然だと思いますからね。

仏の顔して全国民を店に呼ぶ気はないのです。
そんな非現実的誇大妄想を持っても仕方ない。

フリー客オンリーの晒し店にする気もないし完全予約制もよくない。
だが戦略上「予約」は欠かせません。座敷はそのためにある。

使い分けの問題です。

何のためにの使い分けか、
合理的に無駄を失くし経営を安定させる目的?

それも無いとは言いませんが、
あくまでも「顧客の利便性」のためです。




『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画をご存知でしょう。
あれを観ると我々は「一時的精神異常」に見舞われます。

形容など不可能な想いが頭を駆けまわる。
時代は少しずれますけども、まぁあんなもんですよ、ガキ時代はね。

思えば東京タワーの頃から日本人はアクセルを踏みっぱなし。

だが1990年代に大きな「カーブ」が待っていた。
成長は陰りを見せ、人口は減少に転じ少子高齢化へ。

だがアクセルを踏むだけの年月が長く続き、シフトダウンの仕方を忘れてしまっています。

そもそも「便利技術」とやらの進歩でギヤもクラッチも無い。

今求められているものは【ヒール・アンド・トウ】ではないでしょうか。
そのテクニックというか精神を失った末のフクシマでしょう。

カーブを曲がりきれなかったって事です。

ブレーキになるメディア(マスコミ)は壊れてるのでノーブレーキ同然。
オートマ車でカッ飛んでコーナーに突入すれば事故は当然。

運良く即死は免れたが無事で済むわけがない。
「後遺症」はとてつもない程大きく、それはいつか歴史が証明します。

つまりカーブに突入しているのは「飲食業」だけじゃないって事ですよ。
どうすれば事故らずに曲がりきれるのか。

人には腕が2本、足が2本あるのを思い出すべきではないか。
右足のひとつだけじゃないのですよ。


2011年08月30日

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