板前歴。ある年数を重ねますってぇと妙な変化がございます。
例えば、あまり気乗りのしねぇ雑用がしこたま増えたりとかね。
駄々をこねて断るにも限度ってモンがあります。
一部は引き受けざるを得ない。
稀には楽しい行事などもあるが、大方は下らない事ばかり。
「こんな事に人生の貴重な時間を消費しててもいいのか」
そうした巨大な疑惑を胸に抱きつつも、動かねばならぬ中年男の悲壮。
おいらのピュアを喰い荒らす「社会システム」とやらに復讐を誓います(`Д´)
「今にみてやがれ、このトウヘンボク!」
「てめぇ等なんぞ、みんな捨ててトンズラしてやるぜっての」
(↑)小せぇ。小さ過ぎる(T_T)
たんに忙しいのが嫌なんでワガママこいてる爺だっての(笑)
さて、先日新幹線に乗車中読んだ一冊の本に感銘を受けました。
駅構内で見つけ、懐かしさのあまり購入した本。
星新一の『ボッコちゃん』です。
読んだのは何十年前なので、詳細はもう忘れてます。
忘れてはいますが、感動した事は憶えております。
久々に読んでみましたら、驚きました。
青年時代とは別の感動を味わい、星さんの才能に驚嘆。
星新一の作品は特別な例外を除き、ほぼ全作品が数ページで完結するショート・ショート。その分野の第一人者です。
短い簡潔な文章で起承転結しますので、結末を書くことは出来ませんけども、あらすじは以下の様なものです。
バーのマスターが趣味と実用を兼ねてアンドロイド(人型ロボット)を作る。そのロボットをバーのカウンターに立たせて接客させる事に。
とても美人なロボだが人工知能はお粗末。
質問されても「オウム返し」しかできない。
しかしその単純さが逆に受けて、大人気に。
マスターは彼女に『ボッコちゃん』と名を付けロボットである事は秘密。
見方によっては『冷淡な女』、また『奥ゆかしい女』でもあるボッコちゃん目当に客は増えて行き、とうとうボッコちゃんに本気で恋をする男性客が現れる。
しかしいくら本気で迫ったところでボッコちゃんは同じ反応。
「君はとてもキレイだね」
>私とてもキレイでしょう
「たいしてキレイじゃないね」
>たいしてキレイじゃないわ
「この酒美味しいね」
>美味しいお酒ね
「君が好きだ」
>私も好きよ
「君なんか好きじゃない」
>私も嫌いよ
「君を殺してやりたい」
>私を殺してちょうだい
まぁこんな感じ。
普通なら、「これは脈が無いな」とか「遊ばれてる」と考え諦めるでしょうが、恋をした男性は、なんと殺意を抱く。そして実行してしまう・・・・・
これがあらすじです。
これを改めて読んでみて感じたことは二つ。
比較的近年になって騒がれてる『ストーカー』の心理を見事に突いている点と、接客商売の奥義をサラリと示している点です。
星新一がこの『ボッコちゃん』を書いたのは1958年(昭和33年)です。
ストーカーとは一言で表現すれば「ナルシストの極み」です。
相手の意思におかまいなく、妄想が自分の中で膨らんでいく現象。
嫌われていると承知で追いかけるのは、行動原理が「自己」のみだからであり、相手はもはや存在してないとも言えます。
したがって愛しているのは本質的に自分自身であり、追い回す相手を愛してる訳ではありません。
これは言い方を変えますと、ストーキングする相手を「人間」と見ていないのですよ。
偶像として相手を捉えているはずです。
つまり『人形さん』ですな。
もっと言えば「自分だけの人形」です。
だからこそ「何をしてもいい」という短絡思考に疑義を持たないのです。
青年がボッコちゃんに恋をするまでは純と言えましょう。
しかし思うようにならぬからといって「殺意」を持ち「実行」するのは、相手よりも自分を愛しているからに他なりません。
この時点で青年は相手を人間とは見ておらず、「自分だけの人形」と解しているのでしょう。
ところがボッコちゃんは本物の人形(アンドロイド)
青年はそれを最後まで知らない。
星新一の作品構成の深さ、凄さ、先見の明!