接客も相手次第 


暑百戒、粗酒粗餐、是一灯

お盆の段取りがピークを迎えて目が回りそうです。
板前稼業は人様が休養を取る時期が繁忙期。

そつなく乗り切るには早い目の段取りが不可欠。
直前になって慌てるのは大人の仕事と言えません。
全ては「段取り・仕込み」です。

年々人と人の繋がりが薄くなり、それは親兄弟の関係であろうと似たようなものらしく、近年は正月だろうが盆だろうが実家に帰らない方々が激増しているとか。

そんなご時勢ではありますが、やはり盆正月くらいは家族の者が集まり、互いの元気な姿を確かめ合うのが日本人らしさ。

そういう日本人の方々が健在な間は、おいら達の商売にも「需要」ってもんがあります。



本来はこういう機会に、お婆さんから嫁・娘に伝統の節句料理など家伝の味が伝えられ、それが日本の家庭料理を支える役目をしておりました。しかし現在の「全国画一化」(つまり田舎の都市化)では、これは難しくなっているのでしょう。

田舎の方は都会発の愚かなマスコミ情報によって、誤った考え方をする様になっている気が致します。

自分達が受け継いで来た伝統の食文化をね、こともあろうに『田舎臭い』などと思っていて、だから都会から帰ってきた子や孫にあえて披露しなくなっているのですよ。

とんでもない大きな間違いですが、おいらがどう喚こうが騒ごうが、それは日本社会の「確固たる本流」であり、もうどうしようもありません。

口先では「日本の文化を大切に」などと謳いながら、実際に我々が行っている行為は、「古いものは消え去って当然」でしょうね。

個別に優劣を鑑みることなく、全てが一律に「新しいもの」へ変わってしまう。そして「新しいもの」は例外なく薄っぺらいときてる。

現代の大きな病の一つだという気がします。

皮肉な事にその流れがあればこそ、「料理屋の料理」「鮨屋のすし」がまとまって売れます。したがって我々は商売繁盛って訳ですが、それを素直に嬉しいとは思えないのがおいらの複雑な心境。

「これで本当に良いんだろうか」
胸の奥にはいつも割り切れぬものが御座います。

郷土・伝統・節句等日本の食文化が減少傾向
盆正月の東京ってのは、場所と自分の顧客によって極端に変化します。完全に勤め人さんだけが客層の店ならば、世間に合わせて閉店した方がいっそ効率的。

しかしほんの一駅違えば、そしてお客との付き合い方次第では、こういう時期に大きな注文を頂く事も可能です。

持つべきものは「お客さん」
それに尽きましょう。いくら感謝しても足りません。


田舎と言いますとね、かなり前に、この世で一番美味いものは「灼熱地獄の砂漠で飲む水」と、「極寒の雪山で温泉に入り飲む熱燗」だって書いた事があります。正確には忘れましたが、そんなニュアンスです。

それはつまり、「都会には何もない」って意味になりましょう。

「都会は楽しい事だらけ」
この言葉に現代人は踊らされ続け。

それは当然「嘘」なので、人々は本質から遠ざかるのみ。
それが今を生きる者達が抱える哀愁でしょうな。

都会にはね、本当に「何も無い」んですよ。

「いっぱいある」と主張する方はそれを挙げてみて下さい。
それを一覧にしてじっと眺めてみるとよろしい。

それがいかに空虚なモンであるか気がつくでしょう。

大自然が持つ、厳しさと荘厳さ、あたたかさと楽しさ、桁外れの奥深さと懐かしい優しさ。そんなもんに比べたら都会など「ゴミ」みたいなもの。

ゴミ溜の様な都会暮らしの代償に、人は自然に向かう。
つまり「本当の楽しみ」は自然の中にあるんです。

峡谷を流れる川の楽しさは、いかに大金をかけて作った人工プールでも味わえない。草木を伝い頬に当たる風の感触と匂い。雪山で強行に汗をかき、その火照った顔を雪に埋める快感。

急峻な山道、乾いた荒野、獣の気配が濃い夜闇。そんな苦を強いる環境さえもアドレナリンを湧き起こし、野生のDNAが疼いて来る。

「容易に逃れられない都会暮らし」だからこそ、真の解放感は大自然の中に入り込む事でしか得ることが出来ないのですよ。

料理も然り。
グルメがどうしたこうしたと仰る方は、都会でウロウロしてても始まりません。その道のプロのケツに引っ付いて、人間の気配が皆無の山深くに入り、1週間ほどサバイバルに近い生活をしてみることですな。

「美味い」というのがどういう事か、それで分かるはずです。


ただし、自然をナメちゃいけません。

山など大自然を甘くみると「死」

これはバックパック。
機能性と安全性を優先。

これはおいらが自然に出る時愛用してる上着【カナダグース(canadagoose)】です。


CANADA GOOS

カナダ製で、実用一点張り。登山家、森林警備隊、国境監視員、そして軍隊の特殊部隊などが愛用してる品物で、特に南極に常駐する隊員達には必須の服です。

種類の違う三着を持ってまして、行き先によって変えます。
この服を選ぶ理由は単純。「ヒトが恒温動物」だからです。

外気温の急変によって代謝熱が乱れれば人間は簡単に死にます。
他の恒温動物と違い、ヒトは服しかないんですよ。

何か起きた場合(遭難とか)、自分を守るのは服だけ。

たとえ標高数百メートルの、その辺の山でも甘く考えてはいけません。
人間用の道など「糸」より頼りないし、気候は激変します。

チャラチャラした格好など問題外。自殺したいなら別ですが。

人間の命など自然の前では虫に等しい脆弱なものなんです。
虫は虫でもクリプトビオシス状態で絶対零度・真空の宇宙空間から、なんと7万5千気圧にも耐え、全生物を殺す放射線にまで耐えるエイリアン虫、【緩歩動物(クマムシ)】とは比べモンにはならない弱さで、これに比べたら蜻蛉みたいなものでしょうね。


さて、今日の記事は脈絡がありません。
ここでまた話は飛びます。

接客も相手によりけり

東京という場所で料理店をやっておりますと、マスコミ関係者と縁ができやすい。「取材をしたい」、という依頼ですな。出版社等は殆どが都内に蝟集していますので、取材費用の節約という意味でも近くの店が対象になり易いのでしょうね。

都内において店が10年も続いている様でしたら、1度や2度必ずといってよい程そんな事が起こります。

そんな依頼が舞い込んだ場合、おいらは二つ返事です。

「NO」ですな。
一切お断りしております。

マスコミ業界の人間は概して礼儀に欠けた者が多く、後々トラブルが発生する事になり、そうなっても担当者と連絡さえつかなくなる。

最初に依頼をしてくる者は「リサーチ専門」の人が多くなるので、そこそこの礼儀は持っておる場合もありますが、実際に取材を担当する人は感覚が怪しい者が非常に多いし、世の常識から乖離しておるものです。

最初の段階で高飛車な姿勢を隠さない。
「あんたの店を宣伝してやろうってんですよ。無料でね」

無礼千万、誰も宣伝など頼んではいない。
「おととい来やがれ、勘違いの唐変木ヤロウ」

まぁそんな者ばかりではなく、なかには「人間」もおりますし、それに加えて色々な事情があり、依頼を引き受けるケースもありはしますが、それは極めて特殊な例外にすぎません。

だいたいはそのメディアによって「型にはめられ」て終わりです。
一時的な宣伝効果よりも、大事にしてきた顧客に迷惑をかけてしまうマイナスの方がはるかに大きいので、個人店には良い事などまったくなし。

後々の事を考えれば、「飛躍のチャンス」と喜ぶのは誤りです。

彼等の性質を見極め、特に担当責任者の「人間性」を見誤ってはいけません。真摯な姿勢を持たぬ者は、何のためらいもなく事実を歪曲して平気の平左ですのでね。そのような愚か者とは接点を持たぬが正しい処世術です。

お客との触れ合いを大切にしたい店ならば、妙な宣伝方法に色目など使わない事。逆効果にしかなりません。

それでも場所柄ゆえに妙なモンが時折迷い込んできます。
いつ頃でしたか、どう見ても「編集者」としか見えない人間と連れ立って、変なナリをした青二才が来店した事がありました。

着席するなり周囲を憚らぬ大声で、内装の造作についてアレコレ。かと思えばメニューも見ずに「自慢の品を一通り出して」

他の迷惑を考えない、でかいキンキン声、躾の悪い幼児の様な態度。
この後の展開がほぼ予想できたおいらは、
「残念ですが、お出しする料理は何もありません」

眼の色を変えた青二才のセンセイ
「なんだと!」
「俺はグルメとしても定評があるんだ。こんな店なんか俺が一言書いたら客が来なくなる。それでもいいんだな」

自分の品性の無さに気がつかぬ哀れ。
もはや気の毒になってしまい、怒る気にもならない。
「お好きなように」
「出口は向こう」
「とっとと帰って、二度とウチには来なさんな」

もっと何かを言い返したそうな顔をしてましたが、「瞬きをしない眼」でじっと見つめておりましたら、それ以上言うと危険だと感じたのか、そそくさとお帰り下さいました。

モノ書きセンセイとしてそれなりに飯を食ってるから担当の編集者が付いているんでしょうけども、そんな事以前の問題ですな。大人のツラした餓鬼。

文士と言えども、故人の池波正太郎・開高健、実際に板前の経験を持つ元庖丁人の西村寿行。今現在お元気な先生では、料理系統の話は殆どお書きにならないが、大変な料理通である筒井康隆氏。この辺りのホンマモンの粋人とはレベルが違いすぎるってもんです。比較する事すらできゃしません。書いてるモンも推して知るべし。


またも話は変わります。
(タイトル通りに (笑)

もうすぐ『終戦記念日』です。もしくは「終戦の日」です。

日本人は合言葉のように「あの戦争を風化させてはいけない」と言います。おいらもそう思います。忘れてはいかんでしょう。

ですが心配ご無用。
そもそもあの戦争は「まだ終わっておりません」

その証拠が『終戦記念日』という言葉でしょう。

言葉をすり替える事で、あの戦争と正面から向き合うのをやめた。
責任を負うべき者が逃れ、曖昧なまま放置して昭和の時代を進んだのは何もGHQ(米国)のせいばかりとは言えません。

明らかに何らかの『特殊な日本人のメンタリティ』によるものであり、その結果として今現在の日本人はあの時代の日本人と大差がない。

アレと正面から向き合い、終わらせていないからですな。

つまりは「いつまた同じ事が起きても不思議ではない」です。
本質の部分が変わっていないなら、それが当然の帰結。

21世紀のこの国にて、それがファシズムの形になるとは思えませんが、それが何であろうと非常に奇妙な姿をしているんじゃないでしょうか。

「世は太平、日本人はお気軽で平和好き。モダンでオシャレ」
これは今の日本人の事ではありません。
大正時代の日本人の特徴です。
あの大戦を起す前のね。


今日の記事はかなり乱れておりますね。
暑さのせいでしょうか、それとも・・・
まぁおいらとしちゃタイトル通りの文章を書いたつもりです。
そのタイトルが意味不明ではありましょうが(~_~;)

暑さは長引きそうです、くれぐれも「自然をナメない」様に。
人間は自然の前では本当に弱い。
対策を万全にしてこの猛暑を乗り切ってくださいませ。


2010年08月04日

Comment


お問い合わせ・サイトポリシー
Copyright © 2023 手前板前. All Rights Reserved.