外人に寿司を教える



鮨の品

「ダメだ!! 使いモンにならねぇ!」

窓の外には雪が舞い、街のイルミネーションと絡んで時折輝く。
通りを急ぎ足で過ぎて行く背の高い異人さん達は、コートの襟を立てている。肩をすぼめ、うつむき加減。家路以外に目を向ける気持ちはなさそうで、ガラス張りの店内を覗いてくれそうもない。

そんな寒い夜でしたが、それでもありがたいことにテーブル席や個室は満杯でした。

” つけ場 ”の中では板前達が並んだ伝票をこなすのに必死で、窓の外の雪景色に気づいているのは、おいら1人だけだったかも知れません。

3年ほど練習を重ねた北欧系の白人青年が、どうにかこうにか個室のオーダーである「スシの盛り合わせ」を作っていたのですが、それを見て「ダメだなぁ」と・・・・

昔から不思議で仕方ないんですが、なんで外人さんはいくら教えてもスシをまともに握れるようにならないのか?

昔と違って、日本料理全般が見直され(というか誤解が少し是正されてから)交流が深くなって10年以上になりましょうか、それでも、スシを「らしく」握れる外人は例外中の例外であり、99%はどうしてもサマにならないのですよ。

指導していても、もうこれは黙ってみていることができないという場面はいつものことで、そういう時は「見ていなさい」と言い、おいらが握ってみせます。見せてやるのが一番早いし、それ以前に、妙なモンを出しちゃお客さんに失礼ですからね。

おいらは横にも後ろにも目が付いていますので、握りながら若い衆がどんな反応をしているか見逃しません。 外人さんの多くは殆どの場合「アッケラカン」としています。どう説明していいか難しいのですが、「ああ、この子は理解していないなぁ」と分かるんですね。

この世界は「見て技を盗む」のが常道なんですが、彼らは「何をどう盗んでいいか解っていない」のですよ。

彼らが合理的であり、日本人は情緒的である、そういうことも原因のひとつかも知れません。

にぎり鮨って奴はね、「反復作業」のように見えますが、そうではないんです。もし単純な反復作業であれば、これはコンピュータの得意技ですから、人間はロボットに勝てません。実際、ロボットに握らせておいて、タネをのっけるだけという店は沢山あります。

ただね、アレを美味しいと感じるかどうかです。
「美味しいよ」とおっしゃる日本人が多いのは知っております。
しかし「食べ比べてみれば分かる」んですよ。日本人ならね。

その理由はひとつだけ。
鮨はひとつ1つ「全部違う」からです。

カウンターで板前とお客が顔を合わせている理由はそこにあります。板前はただ握るだけじゃなく、その客に合った鮨を握っているんですよ。

そんな機微は人間であればこその経験でしか身につきません。
そういう経験値をコンピューターに教えこむのは無理です。

握る板前の技量により、
鮨には「色気・艶」が出る
鮨には「魂」が宿る

このことを異人さんにどう理解させればいいか。
悩みます。

まずは、「握りの型」を覚える段階
次に、「スシの色気」に気がつくかどうか
そして、お客に合わせて握りを変えられるかどうか

色気と言ってもピンと来ないかも知れません。
でも、「かわいい」と同じなんですよ。
「かっこいい」でもかまわない。

自分がにぎったモンを「かわいい」と思えるかどうかです。
日本人の感性なら、これが理解しやすい。

逆に異人さんはなかなか理解しない。
型だけを習得すればよいと思っているのですな。

出来上がった鮨に「こだわり」を持っていないんです。
色っぽい姉さん、今風に言えば「かわいい」 そんなことなんぞ考えない。だから出来上がったモンは「無骨」 はっきり言えば「雑」

「エサが食いたいならステーキ屋に行くよ」
「腹が膨れりゃよいだけなら、ジャンク屋でいいだろ」
ですな。


ところが、この白人青年は人柄がとても良い。
真面目だし、今どきは日本人にも珍しくなった「根性」もある。

「使いモンにゃならねぇ」と見捨てる気にはなれません。

でも正直な話、「型を盗む」以前のレベル。
仕事が遅すぎてどうにもなりません。
まあ向こうのレベルなら普通の速さかも知れませんが、おいらから見たらトロくて給料を貰えるような仕事じゃないわけです。

翌日、友人に電話をしました。

おいら
「半年でいいからあずかってもらえないかな」
「飛行機代も給料もコッチが負担する」
「こき使ってもいいからさ」
「条件は、毎日最低でもシャリ2本分を握らせる事」

※1本は、米が5キロ(すし飯で約15キロ)
(一般のすし屋の1本はこの半分か1/3)

友人
「そりゃいいですね」
「板前が足りなくてどうにもなりませんよ東京は」
「で、そのヒト日本語はどのくらい話せますか?」

おいら
「まるっきり何も喋れない」

友人
「あ~・・・・・・・」
「すんません。いくら魚サンの頼みでも無理っす」
「申し訳ない・・・」

やれやれです(笑)

経験は言葉で教えられません。
場数を踏むこと(数をこなす事)でしか、身につかない技もあります。速さが身につかないと、「遅い」の意味さえ分からないのです。

シャリをすくった途端、掌の中で自分の皮膚の一部のような感覚になる。目で見なくても飯の粒を「感じる」
そういうのは体が覚えるものであって、アタマの中でいくらシュミレーションしても無駄です。頭で覚えても役にはたたんのです。

どのように舞えば流れるような流線型の美しさになるか。
ムダな動きをしないことです。
動きのムダを排するのは速さと正確さがあればこそ。
それは経験でしか得られません。

その経験を踏まえた人にだけ、「ゆったりと見えるがまったく無駄のない動き」を会得できる可能性があるのです。

「大は小を兼ねる」と言いますが、
速い人は遅さが分かるが、
遅い人には速さが分からないのです。

速さが身についた後、ロボットのようになって行くか、それとも「スシの色気」を大事にして行くか、それは人それぞれだし、仕事環境にもよります。

いくら速くなっても、雑になっていくだけの者もいます。
会社からロボットのように扱われ続け、心が荒れる。
だからスシも荒れる。

しかし、速さの中からしかつかめない【極意】をみいだす板前もおります。その板はおそらく心が芯まで荒れていないか、バランスや感性が秀でているのでしょう。

そういう板前は、「スシの気品」が見えるようなります。
そして眼のこえたお客もその「品」が見えています。

日本人はもともと、そのようなものが「見える」国民なんですよ。

ただ、現代は「色々と見えてほしくない」という潮流が数十年も続いておりますので、盲た方が多くなっているような気がしますけども。


さて、暖かくなったらまた旅立たないといけません。
忙しいことですが、それでも若い衆の成長は心楽しいものですから、たいして苦にはなりません。白人であれ黒人であれ、東洋人であれ、やる気のある若者たちの目は気持ちが良いもんです。

彼らがどういう未来を紡ぎだすのか、そこに興味はありません。
おいら達は、ただ伝えておくべきことを伝えるだけです。

「覚えたい」という若者がいて、もし縁があれば教える。
100人に教えれば、もしかしたら1人くらい出るかも知れません。
スシや日本料理、その「型」の背後にある魂。
それに気がつく者がです。

カタチやテクニックではなく、実は【感情移入】なのだと。
それが日本の料理なんだと。

なんとなく楽しくなってきますなぁ。


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手前板前.魚山人:The person who wrote this page筆者:文責=手前板前.魚山人