五月雨に濡れるダボシャツ  

五月雨に濡れるダボシャツ

冬の最中でも中着はダボシャツ一枚、寒さに弱い者は腹巻。最近の板前はお洒落になりましたけど昔はこれが板前の格好でした。しかも素足に雪駄か下駄。そんなもんです。外套は店の半纏を羽織るだけとかね。そんな風情が粋でもあったような気がします。


昔の話ですがおいらも同様の格好をして雪駄をパタパタさせながら、ある街を散歩していました。清流が流れていまして、梅雨の晴れ間の良い天気でしたので川の土手を木の枝ぶりなんぞ眺めながら歩いていました。

そこで珍しい光景に遭遇、清流を引いた水場でおかみさん達が盥で洗濯をしています。洗濯板を使いしゃがんでゴシゴシとやってます。タライに洗濯板で川で洗濯なんてのはお話の中でしか知らないし実際に見るのは初めてなんで、足を止めて暫く眺めていました。

そうしましたらおばちゃんの1人が、
「兄さん、***の板前さんでしょう、どこから来たの」
格好で職業がすぐに分かる利点があった訳ですねぇ。
「東京です」
「遠くから大変だね~。じゃこんな洗濯も珍しいでしょう」
「はい。初めて見ました」
「その若さじゃお母さんはともかく、お婆ちゃんはやってたはずだよ」
「そうかも知れません。母も多分やってかも」


そう返事しながら、思わずダボの裾をつかんで鮮明に浮かんで来る記憶を頭は追っていました。実はこのダボシャツはお婆ちゃんからのプレゼントだったからです。


祖母は下町に嫁いできましたが生まれは神田か本郷あたりだったはずです。
粋な美人で、しかも気立てが優しいので評判だったと聞いています。もちろん孫のおいらは大のばあちゃんっ子で小さい頃から大好きでした。

鮨屋や料理屋にもよく連れて行ってくれたもんです。板前になったのを一番喜んでくれたのも祖母でした。おいらにとって江戸前って言葉は祖母を指していたもんです。地方に修行に出る時にダボシャツを持たせたてくれたのもばあちゃんでした。


川で洗濯してるおかみさんと話し込んでしまったんですが、
{洗濯機が全国隅々まで普及したのは昭和30年代も後半であり、おそらく東京オリンピック以後。田舎にまで定着したのは40年代に入ってから。それ以前は洗濯板を使っていたし、井戸もあちこちにあった}

それをあらためて教えてもらいました。
子沢山のかみさんは汚れ物も毎日いっぱいでしょう。一枚ずつ手を使い洗濯板で何度もゴシゴシ洗うんです。考えられない重労働ですが、これを当たりまえのようにやっていた訳です。こんな大変な仕事をやれる理由と動機はおいらには一つだけしか考えられません。
母とばあちゃんの細い腕が頭に浮かびました。


電話でもしよう、暫く連絡をしてない母と祖母に。
そう考えながら寮がある店に急ぎ足で着いたところ、
「さっき連絡があった、急いで帰りなさい」


東京はいつ止むともしれない五月雨の煙幕に包まれてました。
傘を持つのももどかしいおいらは雨など無視して病院に急ぎましたので、着いた時はダボシャツが濡れて肌に引っ付き、上半身が透けてみえる有様。
すでに祖母の意識はなく、反応も低下するばかりの状態。
おいらが来たら目を開けると信じてましたので、額に落ちた後れ毛を直してやりながら色々話しかけてみました。しかし目を醒ますことありませんでした。


葬式が済むまで泣かずにいましたが、すべて終えた後1人で祖母の家に行き、遊んでもらった庭に立ち、そぼ降る雨をすべて吸い尽くして輝く様に咲く鮮やかな紫陽花の花を見つめていると涙がとめどなく出てきました。
「せっかくばあちゃんがくれたダボシャツ、雨で濡らしてばかりでごめん」


鬱陶しく降り続ける五月雨も時には役に立つもんです。
男が流す涙を隠してくれましたので。


Posted by 魚山人



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