料理と人の多面体  

料理と人の多面体

「誰が書いたんだこのブログは」
そんな風に一人で逆ギレする時があります(笑)
すっかりある種の【色】がついてしまってますな。

中々更新できないこのブログですが、まったく書いていないわけじゃないんすよ。時々思いつき(笑)で書き出すんです。すると途中でこのブログの【色】じゃないって気がつくんです。さらには一度更新したものでも、後でこの【色】にあってない事が分かります。そんときゃ非公開にしてしまいます。

この【色】について考えると、凄く不思議な気持ちになるんですよ。
ブログ書き始める前の自分にはまったく無いはずの個性が、このサイトを染めてるとしか思えんのです。おいらは二重人格ではないはず。

何故かと言うと、『落ち着きがなく、気の短いロクデナシ』他人がどう思ってるか分かりませんけども、少なくともおいらの自己判断ではそんな人間なんです。
それがまぁ~どうですかこのブログは、
何処の何方がお書きあそばしたのか、偉そうな事ばかり書きやがって(笑)

もしかしたら文章を書きなれない人間が作文を始めたら陥る、【陥穽】にまんまとはまっているのかも知れない。(そんな陥穽があるかな?)

この【乖離】ぶりが面白く、さらにブログにはまって行く運命・・・
それがもしかするとブログ中毒なのかもしれませんなぁ。

懐石も会席にも同じ特徴がありましてね、先付けから止め椀まで、20~30くらいの料理献立をたてなきゃいけませんのですが、全体の統一感を保ちながらもそれぞれの料理に趣向をこらさなきゃいけないということ。

約束事は『季節感』だけで、あとは板前の采配次第になってきます。
要するに何をどう造ろうがかまわないんです。
どんな品でも素材の一種盛りにするのは例外でして、大体はニ三種以上の材料を組み合わせて一品にします。

これに板前は悩まされます。
料理の献立を書けるのは普通料理長か番手だけですから、板前のひとつの到達点でもあり、だから献立をまかされた当初は張り切って色々な献立を考えるものです。
しかし5年10年続くと、アイデアも尽きてしまいます。頭に浮かぶ事はやり尽くした感じになってしまい、新しいものを考えるのが苦痛になり、二番煎じでお茶を濁すことが多くなってしまうんですな。

例えば夏になるとジュンサイが届きますが、それを前に頭が空白になってしまう。

{今回は何にしよう、車エビをつの字に打ってボイルしたのを添えて出すか、いや、それは以前やったっけ。あぁこいつの料理はやり尽くしたしなぁ。だけどそのまんま酢の物で出す事は出来ないし、・・・}

そう悩んだ挙句が、

{うっしゃ!いい事考えた、こん中で鮎を泳がそう。『じゅんさい沼に泳ぐ鮎』、こいつはいいや、へへへへ自分って冴えてるね。}

こうなるともう頭が変になる寸前ってやつですな。

こいつは冗談ですが、ある部分は事実でもあります。
つまりね、一方面からしか物事を捉えられない人間は何れこの壁にぶち当たってしまうんですよ。『違う視点を身につけたい』なんて思っても、言うわ易しでそんな簡単なもんじゃなく、結局は持って生まれた自分の個性ってのがその壁の原因だと気がつき、人はあきらめの境地になります。

別人格が自分に宿って欲しいと思うのはそんな時です。
我々料理人はそれが仕事ですんで、あきらめて放り出す事はできません。
どうにかして新たな着想を得る努力をしなければ、もう水準を維持した料理は作れませんし、それが嫌なら引退しかありません。

そんな日々が、もしかしたらおいらの内部に別の人格を作り出しているのかも知れません。料理をする人間はある種の多面性を求められるんでしょうか。

しかしおいらはまだまだ修行中。生きてる間はずっとそうです。
もともと料理修業ってのは、
【湧いてくるアイデアを形にする為の練習期間】なんです。


Posted by 魚山人 at 2008年

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