世の中どうあれ和食(板前)でけっこう  

世の中どうあれ和食(板前)でけっこう

「板前さん」
最近こう呼ばれるのを敬遠する若手の和食料理人が増えているという話を耳にします。

「◯◯シェフ」とか研究家だの先生だの。まぁそういう感じで呼ばれたいという事でしょうか。

それが本当だとしたら、少し寂しい気がします。

おそらく、当のご本人はそれほど深い意味で「板前」を避けているのではなく、わりと気軽な「ノリ」のような感じで自己アイデンティティーを確立したいだけかも知れません。まあ、少し差別化をしたいという事なのでしょう。

意識はしていないでしょうが、それは結局「板前」という職業を卑下しているというか、一段下に見ているという意味になっていますね。

「今までの和食ではありませんよ」という内心の主張が見え隠れしているのは、ある意味で健全だと思うのですが、強い自制心がなければ、「変な存在」になってしまう可能性もありましょう。

和菓子屋で10年修行、今はケーキ屋のオーナー
蕎麦屋に弟子入りし、今はラーメン屋の主人

極端な例えではありますけどね。
ようするに、ヘタに過去を否定していると、「新しさ」どころか、自分の過去の財産をまったく無駄にしてしまう、失くしてしまう、そんな可能性もあるということです。


 


東京の一部には、「何の仕事をしているか分からない人の方が、なんかカッコいい」という空気が存在します。これは軽佻浮薄時代の遺産で、とんでもない大間違いだと思います。

そんなモンがカッコいいと見做されるのは、この40年間「妙な甘ったるい空気」が漂っている日本だけの特殊事情であって、おそらくメディアの世界を現実に投影してしまう人達だけにしか通用しないものです。TVとか漫画と、現実の区別がつかないのでしょう。

欧米の例を見ますと、それが許されるのは極めて少数の「遊んでいても許される特別階級」に属する人々か、いずれ大成功する天才的なクリエイター達だけですし、日本だって「現実社会」ではまったく通用しません。

まともな人間は誰でも「正式な職業」を持っているのです。

日本の料理を扱う店で「板前修業」をやった経験が無い人ならば、どう名乗ってもご本人の自由だと思います。そんな事にまで異を唱える気はありません。

ちゃんとした板前修行をしていながら、「板前とは無縁です」みたいな立ち位置になろうとする事に危うさを感じてしまうのですね。

現代の和食を、コツコツを積み上げて今に残してくだすった先人たち。殆どが亡くなってしまった先輩板前の方々を否定するのかと、そんな気がしてしまうのです。

正直、板前なんてものはショボイ職業ですよ。
社会的にもずいぶん下の方の階層でしょう。
それは現実です。

だからって、「蓋をかぶせて隠してしまう」ような行き方は何か違うでしょう。

それは、最終的に「日本料理そのものに蓋をしてしまう」という結果になるんじゃないでしょうかね。


それでも、和食で結構

「新しさ」というものを拒否する気はないです。
昔の板前だって、常に研究を重ねていたわけですし、今現在のスタンダードも、その開発意欲が生み出した「当時は珍しい(新しい)料理」だったのですから。

物事は常に変化(それが進化かどうかは別として)し続けるのが当然ですので、和食が変わって行くのも当たり前のことでしょう。


「和食であり続けるのか」
「別の違うものになってしまうのか」
その境界に自分は立っていて、どちらかを選択しなきゃいけないのだと、それを理解しておくべきだとは思いますけどね。

「脱皮」とか「破壊」でもいいと思うんですよ。
壊すなら徹底的に破壊して、そこから何か新しいものを生み出せばいい。

逆に、昔のカタチに拘り続けるのもアリでしょう。
今まで培われた和食の形式を固く守って微動だにしない。それもまたひとつの道です。

ただ、自分がそのどちらなのかを常に意識しておく必要があるということです。

「なんとなく雰囲気に流されていたら、こういう何となく今風の和食になりました」
そういうのは素人さんに任せておけばいいのであって、「板前」までがこの流れにのってはいかんでしょう。


「板前の妙なプライドが嫌い」
これは分からないこともありませんが、だからといって切り捨てるのではなく、「妙な」を改め「正当な」プライドを持てばいいんじゃないでしょうかね。

「和食の世界遺産登録」ってのはね、お役人は知りませんが、これに尽力した諸先輩達の願いは「日本国内に和食が戻ってきて」欲しかったからです。

つまり、「外からUターンしてくれないものか」という願い。これが心のどこかにあったのは否めません。

なんで、「自分達だけの力では守れない」のか。
次から次に新しいものを求める破壊的な消費行動が止まらないからですよ、この国は。

今の若い人達が家庭を築く年齢になった時に、果たして食卓に和食が並ぶのか。そもそも作れるのだろうか。その危惧は大げさではなく現実的なものなんです。

それは結局、和食の料理人までが日本文化を素直に受けつけられない「何か」があるからでしょう。


1億総グルメとか言われつつ、数十メートルも歩けば「出来合いの食べ物」を購入できる「異常なまでの便利さ」もあり、もはや自らの手で自国の料理を作れない。よけいなお世話というレベルの店の多さ、そこでの消費行動がなきゃ行き詰まるよという経済社会。

これは正常なんですかと。

こうした事は止める方法がまったく見当たりません。

少子高齢化で全体が縮小して行けば、あるいは「落ち着いた国」になれる可能性もあるかも知れません。しかし財務省を筆頭としたお役人の方々は「移民をどんどん入れることで現状を維持していく」という方針にしたようです。

「国力低下」と「落ち着いた豊かな国」の違いが、どうしても理解できない様子ですな。

「なんでどうしても1億人の人口が必要なのか」
これを分かるように説明して欲しいものですなぁ。

今でさえギスギスしてるようなザマで、年間数十万人の移民とか可能なんでしょうか。数字だけの辻褄合わせと現実は違うと思うんですがねぇ。


しかしまぁ、大河の流れが急に変わってしまうことはないでしょう。
大量消費で成り立っている経済の仕組みとか、常に目新しいものを買わされてしまうマインドに改造されてしまった国民性が、すぐに変化する筈もない。

「落ち着きのなさ」は今後も続くということです。



でもね、何もかも置き去りにして、日本の文化そのものを捨て去る潮流の向きが変化しないにしても、自分的には「今までの和食」で間に合っております。

和食で結構なんですよ。

板前だし、日本人ですから。


2014年05月26日

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