板前商売と選択眼  

板前商売と選択眼

今日は節分、明日は立春。春が近いですなぁ。

節分の豆蒔きってのはね、要するに「悪霊ばらい」ですな。
それは豆蒔きの起源『追儺(ついな)』からも分かります。

邪を払う、あるいは祓うって事は「魔」や「鬼」が来やすいから。
柊鰯(ひいらぎいわし)、新春はしめ縄で、邪悪なものが家に入らぬ様にする。


季節の変わり目はみなそうですが、体調を崩しやすい。
春先はもしかすると一年で一番風邪をひきやすい時期。

この風邪の字ズラをご覧下さい。
鬼が風にのって来るの意でしょう。
春は病になりやすいのです。


伝統の豆蒔き風習は次第に廃れつつある様子ですが、その代わりに『恵方巻き』なるものが近年増加傾向。

なにしろ昨日おいらのHPへの訪問者は一万二千超え。
みなさん「巻物の巻き方」がお目当でありましょう。

「まるかぶり寿司」っていう奴ですが、「昔はそんなもん聞いたことがないが」って方も多いのではないか。

そりゃまあ当たり前の話でしてね、「バレインタインのチョコ」と似たようなもんですわ。

何故にチョコか?あるいはなんでクリスマスにケーキなのか?
答えは「商人がはしっこいから」
そのようなモンでしかありません。

とは言え、家庭イベントは大変にけっこうなこと。
ご家族で微笑みあう機会は大切にすべきです。
第一、おいらも今日何百本か巻かなきゃいけません(笑)




おいらは昔から夢の中に同じ子供が登場します。以前何かの記事に書きましたが、そりゃ可愛らしい小さな女の子でしてね、おそらくは戦争で焼け死んだ祖母の妹です。

それでは「霊」ではないか。
そう思いましょうが、怖がりの方は安心してください。

幽霊とかそういった類のものは存在しません。

これこそがユングが語る「アニマ」なのでしょう。
つまりおいらの「無意識」と「記憶」が創りあげた子供なのです。
難しく言うと「おいら自身」なのかもしれないということ。

まぁ、「幽霊をみた」って方は、正気なら「自分をみた」のでしょう。

もちろんその女の子は「悪霊」などではなく、もっと頻繁に夢で会いたいほど可愛い子で、たとえ幽霊であろうと大歓迎。なので「はらう」などもってほか。「それはとりつかれております」って言い出す人もこの世にはいるかも知れませんのでこの話は終わり(笑)



さて、人生はやっかいなモンだって話です。

「眩しく輝く天使が貴腐ワインのような香りの甘い吐息で、唇をよせてきたような感じっ」そんな経験もすれば、ドブに落ちて泥んこにまみれ、泥に足をとられて抜け出せないナサケナイ感じ、みたいになる事も。それが人生ってやつです。

ですがね、上記はあくまでも「歩いていれば」ですよ。
寝ていれば「何もおきない」のです。

最近の世をみておりますと、どうも「あるいてない」人々が多い。
そんな気がいたします。

板前修業と選択眼

変わり者の親方と自らの「放浪癖」により、若い時のおいらは四方八方に助板として出向いておりました。アチコチの板場でお世話になったもんです。

何年かそうしていまして、感じた事があるんですよ。
気がついた事があるんです。

腕の良い板前はたくさんいる、なのにコケてしまう例が目立つ。

「ただ庖丁修行してても駄目なんじゃないか」
おいらはそう思ったのです。

料理素材を見る目はあるが人間を見る目がおかしい。
そんな気がしたんですよ。

狭い板場環境に閉じこもっているせいなのか、対人関係がいまひとつなのではないか。職人ってのはどうしてもそうなってしまうし、やむを得ないのかも知れない。

ですが料理人の人生は過酷です。
職人らしく「こもって自分の仕事」をするのが望みであってもね、それを切り替えなきゃ「食べ物商売」ってのはできないんです。

「職人気質」と正反対の「商売人気質」
この両方が必要な、とても因果な仕事なのです。

料理人はいつかは独立するもの。
商売人の修行も必要なのだと考えたわけです。

具体的には何が必要か。

人を迂闊に信用するようでは商売は傾きます。
かといって誰も信用できない様な狭い了見では商いなど出来はしないので、そんな人は商売なんぞ無理。手形のシステムをみれば分かりますように、商売は「信用」ってのがなければ成り立ちません。

だが人は裏切るもの。
それは歴史が証明しております。
手形の無い時代は相手の肉親を「人質」にするのが常道。
それほどまでに信用できないのが人間ってものなのです。

じゃあどうしたらいいのか。
『選択眼』を養う以外に方法は無いんですよ。

バクチ打ちの先輩板に金貸してドロンは序の口。
おいらの車借りて行方不明になった板もいる。
そんなマヌケでお人よしの小僧が、どうやれば選択眼を得れるか。

信用できるか出来ないか、神ではありませんので、100%は無理です。しかしパーセンテージをできうる限り上げておく。それが求められるのが商人なのではないか。この数値が高ければ商売は安定かも。

おいらはよく「許すのが美徳」みたいな事を書いておりますが、「基準なき許容」は悪だと思います。許す許さぬはルールと自己の信念に基づいて判断すべきことなのです。

許し続けるのは誰の為にもなりません。

「左の頬を打たれたら右の頬も差し出す」
このような感覚は神にまかせておけばよい世迷い事でしかないのです。

それは人間に「果てしない自由」を与える事になるからです。

ルールがあってこそ生身の人間は生きていける。
考えてみて下さい、「どこまでも許される果てしない自由」
そんな【不自由】が他にありますか?

それを手に入れたら墜ちるとこまで堕ち、後は無でしかない。
神ならぬ人間ならね。

でかい腹を持ちつつ、でも不正は見逃さない、許さない。
これが大事なのではないでしょうか。

商売は先に書いたように「信頼関係」を前提にしないと仕事になりません。亡者みたいにハナっから人様をまったく信用しないってオツムの持ち主はそもそも商売立ち上げる時点で終わり。軌道に乗るわけがない。

だが選択眼は不可欠。

『選択眼』。残念なことに、この技は個人差が大きい。
見えない人には全然見えないと言ってよいでしょう。

ハナタレ庖丁小僧には難しい課題でした。
鍛えてその感覚を養うしかない。が、どうすればよいか。

その答えはありません。
たとえ心理学の文献を読み漁っても現実ではまったく効果の無い人もいるだろうし、スラムで育ち学校へ行っていない子供が鋭く人を見分ける術を身に付けているケースもありましょう。

でも千差万別だからと投げられない職業の人は、商売関係を始め非常に多いわけで、警察官等のように職場で訓練してくれるところならよいが、でなければ自分で身につけるしかありません。

具体的に言葉で言える事は殆どありませんし、どっちみち「長い経験」が必要なのですが、おいらの経験から少し書きます。

お話ではよく「目を見ると分かる」とかありますがね、
そんなもんでは分かりません。フィクションです。

なぜかというと「本当に自分で信じ込んで喋る」人が多いからです。目が心の窓ならば、その人は真実を言っている事になり、その真贋を見抜くのは無理です。


『木を見ないで森を見る』

漠然とはしてますが、これしかないでしょうな。

例になるかどうか分かりませんけども、おいらは自サイトで紹介するために食品などを扱っている店舗のサイトを数多く見て回ります。ようするに「お店」ですが、食べ物関係は厖大な数を見ています。

いまだウェブに関しては素人と同じですけどもね、食べ物屋さんのサイトの良し悪しは一発で分かる様になりました。最初の頃はともかく、もう三年やってますんで。

はっきり言って怪しげな所もかなりあります。
そういうサイトはもう瞬間的に分かるんですよ。今は。

おいらがどういう基準でもって商品を探しているかは書けませんが、目的のサイトで見るのは「商品」ではないからです。

では何を見てるかというと、「全体とディテールを同時に」見ています。


これは例にすぎませんし、経験もまだ浅いので失敗するケースもないわけではありません。ですがまぁ人間を見る場合でも同じだと思いますよ。


相手の美しい目に見惚れていて、背中に回した手と、履いてる靴を見ないんじゃどうにもなりません。

対象の「会社」とか「店」を見ても意味はありません。

組織がどうあれ動かしているのは個人です。会社のサイトを更新しているのも人間です。

人間ってやつはね、どんな場合でも必ず「足跡」を残しているんですよ。
人には必ず尻尾があるということです。


2010年02月03日

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