和食盛り付けと器  

和食盛り付けと器

何故かキャットテール(ベニヒモノキ)と、

竹の猪口※

なんの事だ?

そう思うでしょうが、このまったく無関係の二つが、おいらの頭の中で像を結び、その瞬間一つの料理が出来上がっております。(もちろんキャットテールを料理にするわけではありません)

 

季節の食材の色彩、器の景色、味、それら全てが瞬間的に完成してしまうのです。まるで写真の様に、出来上がった料理が見えるのです。

ですが、そのプロセスを説明する言葉はありません。
あまりにも刹那の出来事なので、いかなる理由でそうなるのかを自分自身も分からないからです。ただそれが見えるだけです。

それと同じ料理を、あとは現実に作っていくだけ。

※【猪口】(チョク)とは本膳形式でいう、小鉢・小皿・豆皿・珍味入れの類を指します。懐石の【向付】と似ていますが、細かな違いもあります。



分析は苦手なんで書きませんが、要するに「経験と想像力の融合」なのでしょう。

板前によって違う様ですが、おいらの場合は献立を書いてからというよりも、先に料理の細部まで頭の中に浮かぶタイプみたいですね。

その「頭の中」の時点で、味までもが決まっていて、味見する必要すらないという所が「経験」なんでしょう。

もちろん献立にまったく苦しまないかといえば嘘になります。
筆を持っても何も浮かばない。それはよくあります。
気持が何処かへ行っている時には、何かを見て料理が頭に浮かぶ事もなくなります。

そういう場合は必ず「複数の物」を観察します。
何でもいいから気になったものを目に焼き付ける。

そして後、「器」を見るのです。

和食を和食たらしめているのははっきり言って「和食器」
つまり器なんですよ。

その多様性、種類の多さは比類がありません。
大袈裟に表現すれば「一つとして同じ器がない」です。

この多様性を利用してるわけです。
どれもこれも違うからこそ、逆に異質なもの同士の融合が容易いのですよ。たとえ美しい一輪の花を見つけたとしても、もし器がどれもこれも同じで真っ白いキャンバスみたいな物なら、おいらの想像力は働かないでしょう。

ハリウッドの女優を観たあと、日本の女優を見る。
それぞれに美しさが異なります。

フォーマルドレスも良いが、ユニクロファッションの可愛さもまた良い。
その両方を見る事がポイントなのでしょうかね。

両方の刺激がおいら独自の新しい像を作るってわけです。
自分の感覚が「良」と判断したイメージのみが抽出され、反対に「不可」と感ずる部分は消えるのです。


日本の器はそれ自体に主張があります。
「私に似合う様に盛れますかな」、そう言っている。

ヘンクツなほどに板前を寄せ付けない。

縁の落ち込みどころか変形してる奴もいる。
長手皿などは容易には使えません。料理を拒否しますので。

個性に個性を上塗りしてはいけません。
器が「我」を主張すれば、料理を引けばいいと思います。

厚化粧の上から白粉塗っても無意味。
ケバさを打ち消す「静」でないと、鬱陶しく暑苦しい景色を描くだけです。

「まず器ありき」の盛り方も考慮すべきでしょう。

これなどは器の色彩があまりに初々しいので、

色合いを考えればこの辺に落ち着きます。

色を意識した調和になりますね。
思春期のあどけない娘に真っ赤なルージュは似合わない。


要は「組み合わせ方」って訳ですね。
和食と言えば、かたっ苦しい「形式」があってどうも苦手って方も多いでしょうけどね、ランダムなイマジネーションこそが本当は大事なんです。

少し例えがどうかと思いますけども(笑)
なんとなく和食の面白さを感じて頂けましたでしょうか(^^


2010年07月15日

和食の盛り付け

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