『となりのトトロ』と薩摩芋  

『となりのトトロ』と薩摩芋

先日、『料理も人も回遊魚』というタイトルで記事を書きました。
その続きをもう少し書いておきます。

「古いもの」はどうしていけないのか
「新しい」とは何がどう新しいのか

こういうのは、答えが出るような性質ではないでしょうね。

答えが出ない設問は、問うのも無駄だし、考えるのも無駄。
それは承知しております。

承知はしておりますが。
今の日本人が何よりも考えなきゃいけないこと。
そんな気がしてしょうがないんですよ。

もちろん、おいらもその答えを持ってはいませんが。

 

となりのトトロと薩摩芋

宮崎駿の傑作に、『となりのトトロ』というアニメ映画があります。
知らない人はいないんじゃないかと思えるほどの人気作品ですね。

「もののけ」に隠喩される自然憧憬や郷愁は理解できぬ子供であろうが引き込んでしまう何かを持った強烈なファンタジー。

古き良き時代の日本を見事なタッチで描写、オバケの可愛らしさ、そしてサツキとメイという姉妹の「完璧な子供らしさ」などがピタリと決まっており、ジブリ作品の中でもナンバー・ワンとする人も多いアニメーションです。

もちろんおいらも観たことがあります。
料理人ですんで、どうしても「食のシーン」に目が行ってしまいますね。

まぁ、採れたての野菜をザルに入れて清水で冷やしそのままボリボリとか、サツキが拵えたお弁当の七輪焼きのメザシらしきものとか、隣のお婆ちゃんが作ったぼた餅とかね。そういうのはしっかり憶えております。

自分は心に残る良い映画を観た時、終了と同時に「食材」とか「料理」とかをイメージする癖があります。その映画が感動的なら、その感動を「転換」してしまう訳です。食べ物にです。

『となりのトトロ』の場合は、なぜだか「サツマイモ」でした。

あの映画の内容なら、当然「落ち葉の焚き火での焼き芋」となる筈ですが、それが違うんですよ。「兎我野煮」なんです。理由はよく分かりません。

兎我野煮というのはね、「とがの煮」と読みまして、薩摩芋の甘煮です。
「栂尾煮」(とがのお煮)と書く場合もあります。

この料理の発祥には二説がある。

・京都の栂尾にあった高山寺の精進が始まり
・京都の祇園にあった料理屋「栂尾屋」が発祥

二説とも京都ではあるわけで、まぁこのどちらかなんでしょう。料理屋説の「栂尾屋」が「兎我野屋」とされている場合もあります。おそらく「栂尾屋」でしょうが、面白いのでおいらは「兎我野煮」と書くこともあります。

作り方は以下のとおり

栂尾煮 / 兎我野煮 作り方

1、薩摩芋を皮付きで輪切りにする
(細長いものはWに包丁して三角に切り皮を剥く(栗形にしてもよい)

2、バン水に浸ける

3、クチナシを一晩ふやかして色出しした水を用意

4、湯に3を加え、2の芋を茹でこぼす

5、鍋に芋を入れてひたひたに水を張り煮ていく

6、氷砂糖を加えて中火で煮続ける

7、淡口醤油を一滴落として仕上げる

「古さ」に隠れた○○

なんで、となりのトトロからこんな芋煮料理をイメージしたのでしょうか。
ま、板前の頭の中身なんぞ、訳が分からんモンです(笑)


この映画はね、20年以上も前の作品です。
なのに、昨年も「子供にみせたい映画」の第1位になってます。

なぜなんでしょうか。
時代設定は、テレビが無いこと、電話機の古さ、バスの型式などからおそらく昭和30年より前。今の子供達の親だって生まれてない時代でしょう。

そんな古臭いモンのどこが良いのか。
有り体に言えば、「サツキとメイ姉妹のおりこうさんぶり」でしょうな。

親にとって永遠の理想ともいえる「ありえないほど完璧な子供ぶり」
理想の恋人・理想の親ならぬ、理想のこども
「こういう子供になって欲しい」。その願いがあるんでしょうか。

でもね、そんな即物的で単純なもんだけなんでしょうか?

違うと思うんですよ。
あの映画にはもっと「何か」があるという気がするんです。

表現はしづらい。
が、たとえば、「失くしてはいけないものが凝縮されいる」のではないか。あるいは、すでに全部を失っており、その懐古なのか。

あの映画の「古さ」が伝えるものは何なのか。
それがなんで今の人にも「伝わっている」のか。



そのへんのことは、山の中にでも入って考えてみましょうかね。
焚き火の中に突っ込む「薩摩芋」でも背負って。

とがの煮?
そいつは無理ですな。「山の中」ですからね


2012年11月18日

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